福島県いわき市にある楢葉町仮設住宅への支援活動に参加(2011.10.31〜11.2)

福島県いわき市でのボランティア活動に参加して
2011.11.11 日本共産党三鷹市議会議員 岩田 康男

 私は、2011年10月31日から11月2日まで、福島県いわき市の市内にある楢葉町仮設住宅でのボランティア活動に参加してきました。
 これまで5月に宮城県石巻市への地震と大津波での被害に対する支援活動と6月に長野県栄村の地震被害への支援ツアーに参加してきましたが、東日本大震災の三重被害(津波・地震・原発)の原発事故被害の福島への支援ボランティアへの参加の機会がありました。被災地で多くの体験をし、これからの活動に役立つようにしたいと思っています。

一、 活動内容と日程について
@ 31日は、先発の人たちが29日に出ているので私は郡山まで電車で行き、そこで合流しました。まず驚いたのは郡山駅前の放射線量は私の測定器(RadiPA−1000)で0.615マイクロシーベルト(以下、単位は同じ、位置は1m)であり思わず周辺を見渡すと誰も気にする様子もなく通行していることです。二本松市出身の友人の車が迎えに来ていて国道4号線にくると0.863を記録し、本宮市のレストランで昼食を取りましたが、そこは1.030にもなっていました。誰も「騒ぐ」様子もなく普通に食事をみなさんしていました。この日は、いわき市でのボランティア活動は3時ごろまでとのことで、このまま行っても間に合わず夜の手伝いに間に合うようにして、私たちは「現地視察」に行くことにしました。郡山市内にある双葉町の仮設住宅の視察をしましたが住宅地で0.812もありました。ここは放射線量が高く隣が下水処理場で処分できない汚泥が山積みしていて、また買い物にも不便のために129  棟ある仮設で9棟しか入居をしていません。そこから田村市(0.590)、桜で有名な三春町(0.287)を通過して思わず「この辺は低い」の言葉が出てしまいました。近くの小学校では0.230でしたが校庭の隅に囲いがあり「立ち入り禁止」になっているので、校庭の砂を削ってそこに埋めたと思われます。子どもたちは連れ立って元気に下校していました。葛尾村の入り口には監視所があり車をチェックしています。挨拶して通過し村に入る峠に来て測定値が急に跳ね上がり0.624~0.865~1.352~1.931となりました。村には人影はなく、田んぼは草ぼうぼう、大きな牛舎には牛の姿が見えません。家も役場も農協も学校も商店もそのままあるのに、人が住めず生活が出来ない村に変わり果てていました。葛尾村中学校の土手が地震で崩れてその復旧工事をしている人たちがいたのには驚きでした。葛尾村から浪江町区域(1.489)をかすって飯舘村に入りました。村の入り口の峠を上り始めたら数値はうなぎのぼりで3.167~5.748~8.020~9.949になったら測定器が測定不能になりました。党議員団で購入したのは13万円もして高いものと自慢していましたが10マイクロシーベルトしか測定できないことを初めてしりました。後で現地を知る人に聞いてみると15ぐらいと言っていました。峠を下りて村の中心部にくると3.827の数値でした。飯舘村は周辺を低い山に囲まれた盆地状になっていて、ここに原発事故直後に放射能を含んだ雪が降り積もった結果だと言われています。急いで飯舘を通過して川俣町(0.540)を通過して高速道路(0.464)を使いいわき市に向かいました。いわき市は0.164で低い数値で飯舘と同じ原発から30km圏内なのに事故当日の風向きで、長期にわたる甚大な被害を免れています。その夜は復興支援センターで明日の活動の打合わせと支援物資の整理を行い、宿の小名浜には遅く到着しました。
A 二日目から、いわき市内にある楢葉町の仮設住宅への支援活動を行うためにまず「いわき明星大学学生会館」にある楢葉町災害対策本部にあいさつと届出を行いました。その朝、そこでは今日から町に入れる事になり「監視隊」を送る出発式をしていました。楢葉は原発のすぐ近くで近寄ることも出来ずに夏に二度、二時間づつの一時帰宅が認められたがその後は誰も戻れず町民はいわき市内などにある仮設住宅に避難しています。ここに入居した人は震災後に体育館やホテルなど数箇所の避難所を転々としてようやく8月に入居した人たちです。仮設住宅では訪問し要望意見の聞き取りで、一軒で時間がかかり一日まわっても5〜6軒の訪問でした。
昼食にコンビニ弁当を公園でとっていると、隣のベンチにいた91歳の女性高齢者から話しかけられました。津波で家を流されて借上げ住宅にいるそうです。「オーシャンビューだ」と言っていましたが子どもや孫は放射能の関係で一緒に暮らせないそうです。ある人は「孫が来ても食材は違うものを使い、一家団欒で食卓を囲めない」とのことでした。
午後3時から集会場横の広場で共産党の復興支援センターに全国から送られてきているコメや冬物衣料、生活用品などを無料バザーで使ってもらうことをしました。荷物を広げたら30名くらいがすぐ見えてあっという間に無くなりました。集まった人たちから、ふとんがほしい、コメがほしい、大人のオムツはないか、等々の注文が出されました。センターに戻って物資の整理とコメの精米など夜に行いました。
B 三日目は朝6時に起きて小名浜港の視察に出かけました。津波の被害は港周辺の魚市場と工場群が主で港から500メートルぐらいにある小名浜シーサイドホテルは「足のくるぶし」程度の浸水だつたそうです。石巻に比較すると津波の被害は大きくありませんが、それでも海に近い家々や商店は土台のみ残されていて破壊の跡があり、一階部分は板囲いの家々も見られました。魚市場は復旧工事をしている所もあり、大丈夫のところも仕事はしていません。「原発事故の影響で近海漁業が出来ない」ためとのことで、一軒営業していたところも「北海道の魚」を販売しているとのことでした。漁民はかれき処理の仕事をしているそうです。
昨日の楢葉町の仮設住宅に、注文の品物とコメや衣類など二台の車に満載していきました。到着前に20名ぐらい待っていてバザーが始まると70名くらいになり一時間と持ちませんでした。仮設はニュータウンの奥の荒地にありこれから初めての冬を迎えて仕事もなくお金は見舞金と原発事故仮払金のみで先行き不安が大きく、少しでも節約したいとのことでした。また買い物は車がない人や高齢者は週二回のバス利用しかなく不便でもあると訴えていました。
夕方には郡山から一人で帰宅をしました。帰宅して東京駅構内0.043と三鷹駅前0.074と低くなり着ていた被服も0.071と通常の数値を示しました。

二、 今回のボランティアで学び感じたこと
(1) 郡山市と原発から30Km圏内の町村、計画的避難区域の視察から
@ 放射能被ばくの影響は「これ以下なら安全」という基準はなく「少なければ少ないほど良い」というのが原則です。国際基準としているのは年間1ミリシーベルト(毎時0.19マイクロシーベルト)です。福島県は、毎時1マイクロシーベルを超える地域は全体の7分の1の地域もあり、原発事故さえなければ復興も一早く出来たところです。原発被害は長期にわたる時間的にも、どこまでも被害が広がる空間的にも、地域社会をまるごと存続の危機に追い込む社会的にも大被害をもたらす原発事故でより福島では深刻になっています。
A 郡山市の放射線量は高く、事故直後の風向きから大量の放射能が流れた道筋になっているとのことです 。私の観測で駅周辺が0.615で少し先の国道交差点で1.051もあり、近くの小学校で0.438という高さの中で通常の市民生活が行われていることに驚きです。子どもの避難や対策がとられていると思いますが機会があれば市民生活など詳しく調査をしたいと思います。
B 葛尾村や飯舘村は、異常な放射線量の高さにより家も道路も商店もそのままの姿でありながら人と生き物が「ある日、忽然と消え、無人の村」の不気味さです。ある人は「国は除染と言っているか、家のみ除染してもだめだ。田んぼも山も除染しなければ戻っても生活できない」と言って「戻れる日がこないかもしれない」と嘆いていました。仮設住宅の使用は二ヵ年で、それまでに戻れる見通しがなく、2〜3年すると家は地震で雨漏りする所も少なくなく家も田んぼも廃墟化してきて「本当に戻れない」ようになってしまいます。宮城や岩手の漁港などでの復興の取り組みがテレビ等で紹介されていますが、福島のこの地域は「まったく手が付かない」絶望感です。仮設にいたある農業をしていた単身男性は、朝から酒びたり状態でした。福島での自殺者が二割増と高くなっているとの報道もあり、その面での対策も重要になっています。
C いわき市は原発からの距離は飯舘より近いのに放射線量は0.162で三鷹より少し高いくらいで0.19より低いものでした。原発からの距離と同時に事故時の風向きによって被害の度合いに差があることも実感しました。しかし、場所によっては高い数値(0.3〜0.5)をしめしていますので福島県に来たことも実感されます。
(2) 小名浜視察について
@ 小名浜漁港は黒潮と親潮がぶつかるところで取れる魚も豊富です。11月はサンマ漁で賑わうところですが、津波で漁港の破壊だけでなく放射能の影響で漁が出来ずに閑散としていました。僅かに開いていた店も「北海道や全国から来た魚」の扱いでした。漁師のみなさんは瓦礫撤去などの仕事をしているそうです。小名浜は工場団地群が港近くにあり、津波の被害はこれらに影響を与えていました。アクアマリンふくしま水族館も影響を受けましたが全国からの魚支援もあり11月25日に再開の看板がありました。住宅地は津波被害がある部分は石巻などのように広範囲でないようです。漁港の灯が消えているので商店街も人通りが少なく、有数の観光地も閑古鳥でした。
(3) いわき市内の楢葉町仮設住宅での活動から
@ 仮設住宅での訪問活動で深刻で絶望的な話を聞きました。ある若者は「派遣会社に登録しているが、楢葉町に戻るめやすが立たないのでどこでも採用されない。さらに少ない仕事なのでいわき市の人が優先される」「時々、震災関係の県のアルバイトがあるが短期間」と訴えていました。ある農家の人は「田んぼも山林も放射能が高く入れない。放置して二年もたつと田んぼに柳の木が生えて駄目になってしまう。家と道路を除染しても仕事が出来ないので戻れない。ここには仕事がない」別の人は「やることがないので朝から酒をのんでいる」とのことでした。二歳と6ヶ月の子どもがいる若いお母さんは「楢葉では町工場を経営していた。夫は幸いにもいわき市内の取引き先で働くことが出来た。自宅に戻って仕事がしたい。私は、震災直後の出産で産休中だが、職場に戻れるか不安」と言っていて、町から貸与され常に持ち歩く線量計を時々覗いていました。場所によっては高いところもあり子育てに不安があるが仕事の関係で避難できないとも言っていました。ある高齢者は「近くにお店はない。役場で週二回買い物バスを出してくれるが不便」「町から相談員が見回りをしてくれるので安心。友人が近くにいないのでさびしい」「家族一緒に住んでいたが子どもたちは仕事や放射能の関係で私だけ仮設に来た」など要望も意見もないが話はしたいとの「傾聴ボランティア」の仕事をしてきました。
「原発が爆発した前日に東電社員は観光バス7台で茨城に避難した。私たちは直前に知らされ避難したがいわき市まで3時間かかつた」「東電関係の仕事にかかわる人たちが8割はいる。町や東電には文句を言いづらい。みなさんにははっきり言えるが」という複雑な側面もありました。
A 支援物資をお届けする活動もしてきました。仮設には日赤から6点セットの支給(テレビ・冷蔵庫・ポット・炊飯器・洗濯機・レンジ)とエアコン貸与(退去時に返還)がありますが、布団や毛布、衣類や生活用品、食料、公共料金など自前になっています。町や団体から支援物資は届けられていますが「その家庭に必要なもの」が届く方式でなく一律支給になっています。楢葉町への帰宅が二回、二時間づつありましたが、持ち出す量と放射能検査があり十分ではありません。義援金と仮払金での生活では切り詰めざるを得ず「寒くてもエアコンは使えない」とのことです。私たちの支援物資のお届けは、事前に希望を聞き共産党支援復興センターに全国から届いている物資から探し、出来るだけ要望に対応するようにしています。全員分一律に揃っていなくでも対応できるものです。被災地では支援物資を必要していて全国では「少しでも送りたい」との気持ちがあっても市では「受付停止」をしています。役所の扱いではむずかしい課題がたくさんあるので民間、NPOなど持続的に対応できれば良いと痛感しています。楢葉町の仮設はつくば大との共同研究で作った木造のもので「工事事務所的」感じはしません。ところが部屋の中はロフト形式の中二階が急階段であり高齢者は使用不可能だけでなく天井が高い建物になり暖房が効きにくい不便さを訴えていました。町では畳の支給を開始するそうですが、コタツや石油ストーブなど必要との要望もあり、いろいろ改善をはかる必要があると思います。

三、 三鷹市の防災計画に生かす提案
(1)三鷹市は福島原発事故により水道水汚染の被害をはじめ多くの市民から放射能線量測定や食品安全対策など求められ、市役所内と第五小学校では0.20マイクロシーベルト以上の数値が出て洗浄対応をするなど「原発事故被災地」になっています。ましてや浜岡原発から170キロ、横須賀の核搭載の米艦船から50キロの距離にあり防災対策に原発事故対応を位置づける必要があると痛感しました。「防災計画と訓練が実際には役立たなかった」と石巻でもここでも聞かされます。「想定外を想定しての訓練が必要」との声は工夫する必要があると思います。
(2)地震や火災、津波で家と財産、家族や知人を失った人たちも深刻ですが、原発事故で追われた人たちは別の深刻さがあります。被害をもたらしたものは「安全神話を振りまいた」東電と政府対応にあり人災によるものであることや家も財産もそのままの形で残っていながら家も仕事も追われ、いつ復旧するかめどが付かない絶望感をもっていることです。町当局もこまめに相談員の巡回をしていますが、町民自身のコミニティづくりで出来るだけ同じ集落・町内の人と出会える仕組みなど避難所・仮設のあり方を工夫する必要があります。
(3)生活支援とともに仕事や復興支援を政治と政府・自治体で市民に分かる形で全力をあげることが必要です。仕事確保について収入面だけでなく「生きる勇気」を確保するためにも特別の対策が必要です。少しでも希望が見えれば「生きる勇気」が持てると言った人がいました。10月30日に福島市で開かれた「なくせ原発、ふるさと返せ集会」に参加してきたという人もいました。生きる勇気を持つことができる対応が重要です。
(4)情報の伝達の重要性はここでも重要な役割をしめていました。町や支援団体からの情報、自分たちの町がどうなっているのか、除染の可能性と見通しなど伝えることは大きな励ましとなっています。高齢者など多く、紙ベースでの情報提供を基本にする必要があります。「東電の社員とわれわれに情報の格差がある」との指摘はどこでも聞きましたが、正確に迅速に格差の無い情報提供のしくみは重要です。
(5)介護や障がい者対応の仮設住宅のあり方が必要であることは当然です。今回は具体的な話を聞く機会がありませんでしたが「孤立」しない対策が求められます。
(6)今回は議員の役割については調査の機会がありませんでした。福島は県議・町議の選挙真近でしたが、私たちは三鷹市民から義援金を託されていることもありボランティア活動に専念することにし、共産党事務所でなく復興支援センターでの活動をしました。ボランティア活動も町議選がなく共産党の県議候補もいない楢葉町の仮設住宅を選びました。

郡山駅におりて線量の高さに驚き レストラン前1.030 双葉町の仮設住宅僅か9棟の入居
小学校校庭 埋めた除染した土 葛尾村 田んぼは草ぼうぼう 葛尾村 田んぼも家も誰もいない
線量の高い地域は町民も通行禁止 大きな牛舎には牛がいない 飯館村に入る峠は15マイクロ
飯館村全体が放射能は高い 木造の楢葉町仮設住宅 小名浜港の魚市場は破壊された
小名浜の住宅地の津波被害 地震で倒れたままの家 楢葉町仮設住宅での無料バザー
支援物資配布には70名もきた 町役場がコメ10kづつ配布 郡山市内は普通の生活
注文の物が沢山寄せられました 福島は紅葉なのに観光は深刻 郡山市内でも国道交差点は高い
いわき市内の楢葉町住宅975戸 高久にあるものは木造仮設住宅 荒地で畑も花も植えられない
無人の町は不気味です。 どこまで行っても人には会いません ガソリンスタンドも商店もそのまま