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津軽    黒石藩   杏葉牡丹        1万石
陸奥津軽郡黒石(青森県黒石市)   外様  陣屋
移封加減増履歴・文化6年→陸奥黒石1万石

江戸城詰席・柳之間 子爵
上屋敷・本所三ツ目通

参勤・羽州街道を利用
人口・全領地総計1万5932人、この内士族1094人、卒族747人
家数総計2629軒、この内士族178軒、卒族165軒                   明治2年現在
■大名となる前の当家の始まりは明暦2年(1656)に、本家弘前藩3代信義の遺領から弟の信英が5000石を分与されたことによる。
5000石の内訳は黒石領3000石・上野大館領2000石で、信英と親足の間に6人の当主(信敏・政兕・寿世・著高・寧親・典暁)がおり、この間に分与して4000石となるのである。
立藩以前の代々の当主は無役の小普請や寄合に編入された旗本で、江戸に在府して黒石に陣屋を置いていた。家祖信英が本家を10歳で継いだ4代信政を後見したことから、当家には本家を後見する意味合いがあったようだ。
旗本時代の当主の中に政兕(まさたけ)がいる。天和3年(1683)から享保19年(1734)まで当主であった政兕は、趣味としての釣りの本では日本初の「河羨録」(かせんろく)を著わしている。江戸の釣り場や天候、釣具などについて記したもので後の類書に影響を与えたといわれる。
政兕の妻は米沢藩上杉綱憲の養女(吉良義央の次女あぐり)である。

藩祖・親足(ちかたり)
久留里藩黒田直亨の四男 母は某氏
生没・安永9年(1780)〜嘉永2年(1849)
文化2年(1805)旗本津軽典暁の末期養子として家督相続し、4000石を知行する
文化6年(1809)本家弘前藩より蔵米6000石を加増され、1万石の大名となる
従五位下甲斐守
文政8年(1825)隠居
正室・宮津藩本庄資承の娘
子女・養子順徳(2代) 承保(順徳養子、3代)

2代・順徳(ゆきのり)
吉田藩松平信明の三男 母は某氏
生没・寛政10年(1798)〜慶応元年(1865)
家督・文政8年(1825)相続
天保10年(1839)本家弘前藩の家督を継ぎ、名を順承と改め11代藩主となる
子女・養子承保(3代)

3代・承保(つぐやす)
親足次男 
母は某氏
生没・寛政4年(1792)〜嘉永4年(1851)
家督・天保10年(1839)相続
従五位下出雲守
正室・久居藩藤堂高秭の娘
子女・養子承叙(4代)

4代・承叙(つぐみち
本家一門津軽順朝の次男 母は某氏 
生没・天保11年(1840)〜明治36年(1903)
家督・嘉永4年(1851)相続
戊辰戦争では本家津軽藩に従い新政府軍に属して戦う、箱館戦争にも参加する
従五位下式部少輔
正室・鹿野藩池田仲律の娘