徒 然 草  【2004.11.15.開設 : 暫定版

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12  (次々に原稿募集中で〜す!)
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  コミュニティ・カフェ                  井 口 悠 人

 五年ほど前、市街地をサイクリングしていたとき、開店間もない一軒の喫茶店が目に入った。駅から歩いて五分ほどの距離ではあるが、人通りがあまり多くない裏小路である。

 その店はビルの一階の一区画の入口をガラス張りに改造した質素な佇まいで、その扉に「コミュニティ・カフェ」とあった。中に入ると二人の店員と三、四人の客がいた。カウンターと調理場を新設したほかには、空き室をあまり手をかけずに店にしたようで、天井は配管がむき出しのまま、壁は打ち放しのコンクリにアイボリーの塗装をしているだけであった。

 しかし客席のテーブルと椅子はひとつひとつが手作りの木製品で、片隅にある飾り棚には内外の、これも手作りの人形などが並んでいる。一見して仲間うちの店、コミュニティの店という雰囲気も伺えた。

 その日から一ヶ月ほど経って、地域グループで「玉川上水ネット」というひとつのネットワークを立ち上げる準備会を始めたとき、集まった参加者のひとりがあの店の責任者、Mさんだった。彼はNPO関連の仕事を続けており、その一環として喫茶店を開いたとのことだった。「コミュニティ・カフェ」の由来は何となくわかる気がしたが、「雑多楽や」という店名については「ご想像にお任せします」といって口を閉ざしたきりだった。

 彼との接触をきっかけに、この店に行くことが多くなり、Mさんや店員の女性、また顔なじみになった常連客と話を交わすようにもなった。次の年、ネットワークのイベントとして写真展をこの店で開き、引き続いて地域グループの打ちあわせ会や忘年会の会場にも利用させてもらった。

 その後、店内に近隣のアマチュアカメラマンの写真や織物や工作品が季節毎に飾られたし、また市外にまたがる広域の多数の絵画、ポスター、デッサン、ちぎり絵などの募集とその展覧、題して「ロートレックをさがせ」という大掛かりなイベントも行われた。コミュニティのサロンとしての面目躍如の感があった。

 国際交流の場でもあった。日本人女性と日本に留学中の外国人とのカップルを囲む夕べの集いがここで行われた。アフリカ・マリ共和国の夫婦とインド北部カシミールの夫婦の二回があり、マリ共和国のときは当地特産の岩塩を持参してお国の紹介、カシミールの場合は広い谷間の桃源郷のような風景のビデオ映像を挟んだ懇親会となった。肌色の違う大男とか細いが毅然とした日本女性の組み合わせ、それを取り巻く仲間の姿に国際親善の一面をみる思いがした。

 この店では喫茶のほかに昼食をとることもできた。ビーフカレー、ポークソテー、ムニエルなど味の凝った洋食で、この評判も悪くなかったようだ。

 しかし、三年を過ぎた頃、店の客の入りが少ないのが気になった。
コミュニティ相手の営業の難しさが出たようだった。国際交流のイベントを挟んで、夜間のスナックバーを開いたこともあったが、まもなく閉じられていた。イベントの時にはそれなりの人が集まるが、平日に通りすぎる一般客の足を止めるには店の見栄えがいまひとつだったのか、また一度は入ってみても、今様のスマートであかるく一見豪華な喫茶店の内装を見慣れている目には、この店の意図した落ち着いた民芸風調度の魅力が、天井や壁から受ける質素なやや暗い雰囲気の中では感じ取りにくかったのであろうか。

 昨年春、この喫茶店は閉店した。わがコーヒー歴に残るコミュニティ・カフェの五年間だった。その後、まちなかでこれに代わる行きつけの店はまだ決まっていない。          (平成十九年一月)
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 三鷹中央通りを、駅に向かっていたところだった。白人の男性(・・30代くらいかな?)が、歩道の脇の地面を、凝視している。「なんだ?」と、私は思った。男性は、タバコの吸殻を拾った。その後も、歩きつつ、道端の吸殻を拾っていた。しけもくを集めているのではなく、ゴミを除去するため・・・だよね。もちろん。

 東京のあちこちで、吸殻に限らず、ゴミを道端にポイ捨てする人は多い。JTのCMで、地域貢献活動を行っているものを見たことがある
   http://www.jti.co.jp/JTI/Welcome.html

 このような活動は、もちろん悪いことではないのだが、ポイ捨てが当然のように行われてしまう国に日本がなってしまったことには変わりない。・・と、私とて、それほど、かつての日本を知っているわけではないのだが・・。

 海外ではどうなのだろうか?吸殻を拾っていた男性の母国では、どうなのだろうか?

 毎年、8月になると、戦争を忘れてはならない・・というような報道や行事が行われる。それは、もちろん大事なことなのだが、戦争以外にも、後世に伝えなくてはならないこと、・・・そして伝えそびれてしまったことが、日本には多いような気がする。

 【新川在住・あり蔵 2006.08.19.】

 あの車は・・どこへ

 近所にコムスンの建設予定地があります。広さは1万uを超える広さで、一年程前から敷地を駐車場として活用していました。それが、1週間程前、いよいよ建設にかかるのか車の駐車を禁止致しました。

 いつも犬の散歩の折、通りかかるのですが広々とした敷地にいつも100台位いろんな車がひしめいていたのがガランとして、今は一台もありません。
 北海道のニシンの漁場を連想して、オンボロロ〜オンボロロなどとつぶやいてしまいました。
 さて、あの100台の車は今、どこに行ったのでしょう、そんなことを感じた朝のひとときでした。(晴)

  【「市民連だより あすへの歩み」第45号より】

 「プチ森林浴」!!

 生協横、連雀コミセンの駐輪場にある桐は、春は薄紫の花と香りを、暑い時期は大きな葉を揺らして緑と涼を提供してくれていました。
10月のある日、親子連れの指さす先には地上から2m程のところで切断され、葉の一枚もない幹がフェンスに寄りかかっているだけでした。翌日、事務局に問い合わせしたら、葉の始末が大変、また滑りやすく危険なので切ったと説明がありました。
 立派な庭木のあるお宅が、次々とマンションや小分けの住宅になり、人工的なガーデニングに姿を変えています。それなりに目は楽しむのですが、広い緑地は失われます。屋上緑化、打ち水などが叫ばれる昨今、地面に、あえて言えば大地に水を戻し、蒸散してこそ温暖化防止となる樹木の意義があると思います。人間の目に見える緑ばかりを追いかけていては本質を見失うことにならないかと憂います。
 雑踏の駅前から一歩すずかけ通りに入ると大きなスズカケとイチョウのある大木があってこそ、涼しい、ホッとする、目にする以上の効用があるのでしょう。プチ森林浴?
 今ある緑の面積を保つことが難しいとしても、せめて地域にある大きい樹木は大切に残したい。人の暮らす街中では手入れは必要ですが、木の生命を絶たない方法を探ってもらいたいと思います。
 桐の木は、それでも春になれば芽吹きが期待できるらしい、待たれます。(阪口)

  【「市民連だより あすへの歩み」第45号より】

 アホウドリは泣いている

 アホウドリは、東京都下はるか南の鳥島で繁殖する大型の海鳥である。鳥島には、産卵とひなを育てるために一時滞在するだけで、その他の時期は、北平洋を広く旅をする。
 私は、20年前だったかアホウドリのドキュメントをテレビで見たときからのファンである。アホウドリは繁殖期にしか島に戻らないとはいえ、なんと生涯一夫一妻で配偶者を変えないそうだ。
 7歳前後から繁殖を始めて平均寿命約20年、本能とはいえ何とラブリィ!。ヒナをある程度育てた後、親は先に飛びたってしまうので、後に残されたヒナ達(ヒナと言っても結構でかいのだが)は、自力で滑空を学習し、広い太平洋へ旅たつ。つい甘やかしてしまうどこぞの親とは大違いである。
 鳥島での繁殖を観察している人の報告によると、ヒナは食べたものを吐き出すことがあり、その中にプラスチックのカケラが混じっていて、その割合は、年々増加しているそうだ。
 アホウドリの親が、海に漂うプラスチックのカケラを間違って食べてしまい、それをヒナに与えているためである。似たような被害は他の海の動物、魚、鳥でも多い。海に浮かぶポリ袋をクラゲと間違えて食べてしまったり、発砲スチロールが砕けた小さな丸い粒を卵だと間違えて食べてしまったりするそうだ。
 プラスチックのゴミはどこから来るのだろうか? プラスチックは腐らないし、沈みもしないので、海岸や川辺に捨てたゴミが簡単に流されて、太平洋のはるかかなたまで旅してしまうのである。
 三鷹市内に捨てられたポリ袋やプラスチックだって、いつしか風に飛ばされ、川に流され、太平洋にたどり着き、海流に何十年と流され続けているものが少なくないはずだ。

 どうか川辺にゴミを捨てないでほしい・・と、声なき海の動物に替わってお願いしたい。

          参考:長谷川博「森の新聞9アホウドリの島」(株)フレーベル館1997

 新川在住・あり蔵: 「環境市民連ニュース」改題「市民連だより あすへの歩み」第44号より】

  

 墓地雑感<続>  「住環境確保」

 多発する墓地トラブルについて各市で対策を講じてます。
 三鷹市は協議の場を提供すると共に、まちづくり条例に基づき環境配慮審査会が答申にて市街地(新川)の墓地に関し見解を示し次の3点を強く求めています。

  (1) 都の最低基準以上の駐車対策
  (2) 緑化計画に細心の配慮を求め、特に住民の立場を考慮し、墓石等が見えない目隠し機能を重視した植栽
  (3) 住民との協議により協調関係を築くこと。

 近隣都市等では新規墓地を認めない、住宅地から一定の距離、墓地を離す等条件を明文化、開発行為は住民との合意を義務づける等住環境優先確保に取組んでいます。福井市の例では更に土地の有効利用・活性化を目的に、市街地にある墓碑を郊外へ移転させる都市計画を決定。
 協働による快適な生活環境のまちづくりには、未来を考え、建設的で生活者を重視し、地域を活性化させることが私共の努めではないでしょうか。

   【Koba: 「環境市民連ニュース」改題「市民連だより あすへの歩み」第43号より】
 駅前が変わりつつあるけれど・・

 「なぜいまなのか?」 駅前デッキ、集合ビル、駅前の商店活性化計画は30年以上も前にあったと思うのに、変わる駅前を有効に使おうという商店街のお覚悟は聞こえてきたっけ?

 スーパーや商店の入れ替わり劇を見ては、市場としての小ささを感じています。日常生活を地元で賄えるような店揃え、品揃えを望むのは、 「住みたい街」に挙げられる三鷹だから。それにしても土日の外食店には列ができ、電子モールも繁盛とか?新たな取り組みもさることながら、見た目の三鷹はビル風吹く殺風景な印象が強い。

 真に住み心地良い街は何によって実現できるのか、土を掘る前に考えてもらいたい。


   【Saka: 「環境市民連ニュース」改題「市民連だより あすへの歩み」第42号より】

 墓地雑感

 私自身、環境問題に特に関心があった訳ではないが、住宅地に大規模な墓地が簡単にできる実態を知り愕然とした。不良債権化した士地を安く入手できるので、墓地関係者がビジネスチャンス到来とばかり儲けに驀進し全国的に社会問題となっている。

 毎週墓地販売の折込がくるように、墓地は余っているのが現状。それでも新規墓地開発のラッシュ。正にマンションと同じ現象。将来深刻な問題だがマンションは取り壊せば利用可能。墓地は士地の再利用は難しい。墓地販売文言は『緑豊かな公園墓地』墓数・売値の関係で猫の額ほどの墓地が多く、現実はコンクリートと石の集合体。そして墓参りの際、隣人と肩がぶつかるのが実情。来世も墓も現世の延長とは悲しいですね。しかも石等の塊の輻射熱によりヒートアイランド現象が発生。ランドサット映像では三鷹は高温地区。建物であれば対策を義務づけられるが、墓地は野放し。子供に良い環境を残すため、協力して頑張ろう。

   【Koba: 「環境市民連ニュース」改題「市民連だより あすへの歩み」第41号より】

 ちょっと一言: その2

 先目、テレビで日本のごみ埋立地は後12年で満杯となり、日本列島・ごみ列島となりかねないと放送していました。私達は毎目、必ず何がしかのごみをだしています。生ごみの堆肥化をしている私ですが、少々手間がかかります。しかし、ダイレクトメール、パック、 トレイ等、私の幼かった頃には出さずに済んだ物が次々とあふれ、利便性と引き換えにごみを排出しているとも言えるのではないでしょうか。

 C0を吸収してくれる木々の伐採、有毒ガスの発生、水質汚染による更なる木々の枯渇、これら自然環境破壊は一度なされると元に戻らないかもしれないし、戻せるとしても気の遠くなるほどの時を要します。これ以上の環境悪化を次世代に渡さぬよう一人一人が生活を見直して、スローライフを心掛けるのも良いのではないでしょうか。自戒の念も含めて一言。

   Hashi: 「環境市民連ニュース」第40号より】

 ちょっと一言: その1

 地方分権法が2000年4月に施行され、自治体に権限が移譲されたが、都市計画に関しては十分な権限が白治体に分与されていない。本来ならば、地域の実情を良く知る自治体に、士地利用の用途規制や容積率を柔軟に決定できる権限を与えられるべきである。また、市民には自分達の住む地域を、どういう性格のまちにするかについて、住民が議論して住民協定を結び、さらに都市計画法に裏づけされた地区計画をつくり、住民の納得のもとに士地利用を規制することができなくては、個性があり、安心して暮らせるまちづくりは実現できないと考える。

 現行のまちづくり条例や環境配慮制度は、国の法律に抵触することを恐れ、非権力的指導を内容とするに止まっており、法を盾に利益追求一辺倒の企業に対応していくには力不足であるのが現実だと思われる。

   Fuji: 「環境市民連ニュース」第39号より】

 「名前」の想い出:

 一昨日の土曜日、山梨県の東部にある大和村に行った。実は、1ヶ月ほど前、諏訪に行くために時刻表を見ていて、「おやこんな駅、あったかな?」と気が付いたからである。中央線で「大月」から西へ「初狩」「笹子」の次に「甲斐大和」とある。知らなかった駅名である。その隣りの「勝沼ぶどう郷」も違和感があったが、これは駅名の並びから、かっての「勝沼」であると推測された。では、「甲斐大和」とは何だ? 気になってしょうがないので調べてみた。何のことは無い、旧「初鹿野」(はじかの)駅だった。

 明治36年に「初鹿野村」に作られた駅は「初鹿野駅」と命名された。”国鉄”中央線を蒸気機関車で信州に向かって走る時、どんな暑いときでも、まず小仏トンネルで窓際の人全員が車窓を閉める。蒸気機関車の煙と煤が突入してくるからだ。トンネルを抜けると今度は一斉に窓を開け放つ。窒息しそうな体に新鮮な空気を吸い込む。相模湖を眺めながら、上野原を過ぎると汽車は山襞を走る。このためトンネルが多く、窓の開け・閉めの頻度が増える。手間がかかるが、まだ短いトンネルはいい。そして、最大の難所が笹子トンネルである。もちろん、車輌すべての窓は一斉に閉じられる。少しでもタイミングを失すると、他の乗客から非難の視線を浴びることになる。4.8Kmの長い長いトンネルを、まるで意地悪しているかのようにゆっくりとゆっくりと汽車は進む。窓を閉めてはいても煙は車内に充満して、窒息寸前の状態となる。

 その笹子トンネルを出た瞬間、窓が一斉に開けられ、それと同時に停車するのが初鹿野駅である。服にまつわり付いた煤を、こすらないように(こすると服の繊維に入り込んで黒くなるので:)叩き落とすのである。ついでだが;ハナクソは真っ黒けとなる。
 救われた想いとともに、山あいの小さな駅;「はじかの」が心に残っていた。
 青年時代に確か2度、初鹿野駅に降り立ったことがある。ここから大菩薩や雁腹摺山に登山をした。

 さて、その「初鹿野」駅が「甲斐大和」駅に変わったのは最近、平成5年のことである。何故か? ここからは私の推測を含むが・・・

 実は、現在の大和村は、昭和16年に5ヶ村が合併したものである。鶴瀬村、初鹿野村、田野村、日影村、木賊村の小さな5つの村である。面積は43平方Kmであるが、現在、人口は1,500人余り、500戸余りの村である。
 この村唯一の駅が「初鹿野」である。旧村の一つ「初鹿野」村が大和村の代表であるようで、他の4村はおもしろくない。そこで、「大和村なんだから大和駅にしろ」という声が挙がったのだろう。ところが国鉄には「大和」駅が既にあり、同名は使えない。そこで「甲斐大和」駅としたんだろう。
 これが私の推測である。こうして情緒ある「初鹿野」は、現在字名に残るのみである。
 しかし、まだ疑問は残る。なぜ合併から50年以上も経ってからの駅名変更であったのか? これは宿題としよう。

 こんなことを考えていて、現在全国で進められている「平成の大合併」を想う。地方分権とか自治体効率とかが謳い文句となっているこの騒動は、3,000余りの市町村を2,000以下にするとかだ。この前の新潟県中越地震でも、被災の中、魚沼市などが誕生した。
 問題は、「名前」である。合併の当事者(市町村)の規模の大きいところが主導権をとる傾向にある。同規模の場合は、自分に有利な名前をそれぞれが主張する。それだけではなく、合併対象外の周辺の地域から「そんな名称を勝手に使ってはNO!」という反論まで出てくる。その挙句の果てに、地域の歴史や文化とは何の関連も無い奇妙な自治体が誕生することになる。具体的にはまた後日ここに書きたいが、この近くでは「西東京市」「さいたま市」、最近では「四国中央市」など、枚挙に暇が無いくらいである。

 先の「大和村」や「甲斐大和駅」も全国に多くある「大和」を選択した理由はあるかもしれないが、何百年と続いてきた歴史や文化を感じさせるものではないと想うのだが・・・

 ついでに、この村には「景徳院」(武田勝頼の菩提寺:徳川家康建立)と栖雲寺(蕎麦切発祥の地)、それと「日川渓谷」があるくらいの、あまり知られた場所ではないはずである。:・・・にも拘らず南大菩薩連嶺を目指すハイカーだけではなく、大型観光バスやマイカーの人たちが多いのには驚いた(自分自身もその一員なのだが;)。それほど極端な多人数ではなかったが、人はみな同じ想いをするようである。

 そんな大和村ではあるが、旧甲州街道の宿場「駒飼(こまかい)宿」には誰も訪れていなかった。【写真⇒】
 しばし、江戸や明治の時代を感じ取ることができた一日であった。

   【 Tom 2004.11.15.】

 

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