● 『つれづれなるままにひぐらしすずりにむかいて・・・』、との境地には至らなくても、なんでもご自由に書いてみませんか?
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| 11 | コミュニティ・カフェ 井 口 悠 人 五年ほど前、市街地をサイクリングしていたとき、開店間もない一軒の喫茶店が目に入った。駅から歩いて五分ほどの距離ではあるが、人通りがあまり多くない裏小路である。 その店はビルの一階の一区画の入口をガラス張りに改造した質素な佇まいで、その扉に「コミュニティ・カフェ」とあった。中に入ると二人の店員と三、四人の客がいた。カウンターと調理場を新設したほかには、空き室をあまり手をかけずに店にしたようで、天井は配管がむき出しのまま、壁は打ち放しのコンクリにアイボリーの塗装をしているだけであった。 しかし客席のテーブルと椅子はひとつひとつが手作りの木製品で、片隅にある飾り棚には内外の、これも手作りの人形などが並んでいる。一見して仲間うちの店、コミュニティの店という雰囲気も伺えた。 その日から一ヶ月ほど経って、地域グループで「玉川上水ネット」というひとつのネットワークを立ち上げる準備会を始めたとき、集まった参加者のひとりがあの店の責任者、Mさんだった。彼はNPO関連の仕事を続けており、その一環として喫茶店を開いたとのことだった。「コミュニティ・カフェ」の由来は何となくわかる気がしたが、「雑多楽や」という店名については「ご想像にお任せします」といって口を閉ざしたきりだった。 彼との接触をきっかけに、この店に行くことが多くなり、Mさんや店員の女性、また顔なじみになった常連客と話を交わすようにもなった。次の年、ネットワークのイベントとして写真展をこの店で開き、引き続いて地域グループの打ちあわせ会や忘年会の会場にも利用させてもらった。 その後、店内に近隣のアマチュアカメラマンの写真や織物や工作品が季節毎に飾られたし、また市外にまたがる広域の多数の絵画、ポスター、デッサン、ちぎり絵などの募集とその展覧、題して「ロートレックをさがせ」という大掛かりなイベントも行われた。コミュニティのサロンとしての面目躍如の感があった。 国際交流の場でもあった。日本人女性と日本に留学中の外国人とのカップルを囲む夕べの集いがここで行われた。アフリカ・マリ共和国の夫婦とインド北部カシミールの夫婦の二回があり、マリ共和国のときは当地特産の岩塩を持参してお国の紹介、カシミールの場合は広い谷間の桃源郷のような風景のビデオ映像を挟んだ懇親会となった。肌色の違う大男とか細いが毅然とした日本女性の組み合わせ、それを取り巻く仲間の姿に国際親善の一面をみる思いがした。 この店では喫茶のほかに昼食をとることもできた。ビーフカレー、ポークソテー、ムニエルなど味の凝った洋食で、この評判も悪くなかったようだ。 しかし、三年を過ぎた頃、店の客の入りが少ないのが気になった。 コミュニティ相手の営業の難しさが出たようだった。国際交流のイベントを挟んで、夜間のスナックバーを開いたこともあったが、まもなく閉じられていた。イベントの時にはそれなりの人が集まるが、平日に通りすぎる一般客の足を止めるには店の見栄えがいまひとつだったのか、また一度は入ってみても、今様のスマートであかるく一見豪華な喫茶店の内装を見慣れている目には、この店の意図した落ち着いた民芸風調度の魅力が、天井や壁から受ける質素なやや暗い雰囲気の中では感じ取りにくかったのであろうか。 昨年春、この喫茶店は閉店した。わがコーヒー歴に残るコミュニティ・カフェの五年間だった。その後、まちなかでこれに代わる行きつけの店はまだ決まっていない。 (平成十九年一月) |
| 10 | 三鷹中央通りを、駅に向かっていたところだった。白人の男性(・・30代くらいかな?)が、歩道の脇の地面を、凝視している。「なんだ?」と、私は思った。男性は、タバコの吸殻を拾った。その後も、歩きつつ、道端の吸殻を拾っていた。しけもくを集めているのではなく、ゴミを除去するため・・・だよね。もちろん。 東京のあちこちで、吸殻に限らず、ゴミを道端にポイ捨てする人は多い。JTのCMで、地域貢献活動を行っているものを見たことがある http://www.jti.co.jp/JTI/Welcome.html このような活動は、もちろん悪いことではないのだが、ポイ捨てが当然のように行われてしまう国に日本がなってしまったことには変わりない。・・と、私とて、それほど、かつての日本を知っているわけではないのだが・・。 海外ではどうなのだろうか?吸殻を拾っていた男性の母国では、どうなのだろうか? 毎年、8月になると、戦争を忘れてはならない・・というような報道や行事が行われる。それは、もちろん大事なことなのだが、戦争以外にも、後世に伝えなくてはならないこと、・・・そして伝えそびれてしまったことが、日本には多いような気がする。 【新川在住・あり蔵 2006.08.19.】 |
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あの車は・・どこへ |
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「プチ森林浴」!! |
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アホウドリは泣いている |
| 6 | 墓地雑感<続> 「住環境確保」 多発する墓地トラブルについて各市で対策を講じてます。 三鷹市は協議の場を提供すると共に、まちづくり条例に基づき環境配慮審査会が答申にて市街地(新川)の墓地に関し見解を示し次の3点を強く求めています。 (1) 都の最低基準以上の駐車対策 (2) 緑化計画に細心の配慮を求め、特に住民の立場を考慮し、墓石等が見えない目隠し機能を重視した植栽 (3) 住民との協議により協調関係を築くこと。 近隣都市等では新規墓地を認めない、住宅地から一定の距離、墓地を離す等条件を明文化、開発行為は住民との合意を義務づける等住環境優先確保に取組んでいます。福井市の例では更に土地の有効利用・活性化を目的に、市街地にある墓碑を郊外へ移転させる都市計画を決定。 協働による快適な生活環境のまちづくりには、未来を考え、建設的で生活者を重視し、地域を活性化させることが私共の努めではないでしょうか。 【Koba: 「環境市民連ニュース」改題「市民連だより あすへの歩み」第43号より】 |
| 5 | 駅前が変わりつつあるけれど・・ 「なぜいまなのか?」 駅前デッキ、集合ビル、駅前の商店活性化計画は30年以上も前にあったと思うのに、変わる駅前を有効に使おうという商店街のお覚悟は聞こえてきたっけ? スーパーや商店の入れ替わり劇を見ては、市場としての小ささを感じています。日常生活を地元で賄えるような店揃え、品揃えを望むのは、 「住みたい街」に挙げられる三鷹だから。それにしても土日の外食店には列ができ、電子モールも繁盛とか?新たな取り組みもさることながら、見た目の三鷹はビル風吹く殺風景な印象が強い。 真に住み心地良い街は何によって実現できるのか、土を掘る前に考えてもらいたい。 【Saka: 「環境市民連ニュース」改題「市民連だより あすへの歩み」第42号より】 |
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墓地雑感 |
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ちょっと一言: その2 |
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ちょっと一言: その1 |
| 1 | 「名前」の想い出: 一昨日の土曜日、山梨県の東部にある大和村に行った。実は、1ヶ月ほど前、諏訪に行くために時刻表を見ていて、「おやこんな駅、あったかな?」と気が付いたからである。中央線で「大月」から西へ「初狩」「笹子」の次に「甲斐大和」とある。知らなかった駅名である。その隣りの「勝沼ぶどう郷」も違和感があったが、これは駅名の並びから、かっての「勝沼」であると推測された。では、「甲斐大和」とは何だ? 気になってしょうがないので調べてみた。何のことは無い、旧「初鹿野」(はじかの)駅だった。 明治36年に「初鹿野村」に作られた駅は「初鹿野駅」と命名された。”国鉄”中央線を蒸気機関車で信州に向かって走る時、どんな暑いときでも、まず小仏トンネルで窓際の人全員が車窓を閉める。蒸気機関車の煙と煤が突入してくるからだ。トンネルを抜けると今度は一斉に窓を開け放つ。窒息しそうな体に新鮮な空気を吸い込む。相模湖を眺めながら、上野原を過ぎると汽車は山襞を走る。このためトンネルが多く、窓の開け・閉めの頻度が増える。手間がかかるが、まだ短いトンネルはいい。そして、最大の難所が笹子トンネルである。もちろん、車輌すべての窓は一斉に閉じられる。少しでもタイミングを失すると、他の乗客から非難の視線を浴びることになる。4.8Kmの長い長いトンネルを、まるで意地悪しているかのようにゆっくりとゆっくりと汽車は進む。窓を閉めてはいても煙は車内に充満して、窒息寸前の状態となる。 その笹子トンネルを出た瞬間、窓が一斉に開けられ、それと同時に停車するのが初鹿野駅である。服にまつわり付いた煤を、こすらないように(こすると服の繊維に入り込んで黒くなるので:)叩き落とすのである。ついでだが;ハナクソは真っ黒けとなる。 救われた想いとともに、山あいの小さな駅;「はじかの」が心に残っていた。 青年時代に確か2度、初鹿野駅に降り立ったことがある。ここから大菩薩や雁腹摺山に登山をした。 さて、その「初鹿野」駅が「甲斐大和」駅に変わったのは最近、平成5年のことである。何故か? ここからは私の推測を含むが・・・ 実は、現在の大和村は、昭和16年に5ヶ村が合併したものである。鶴瀬村、初鹿野村、田野村、日影村、木賊村の小さな5つの村である。面積は43平方Kmであるが、現在、人口は1,500人余り、500戸余りの村である。 この村唯一の駅が「初鹿野」である。旧村の一つ「初鹿野」村が大和村の代表であるようで、他の4村はおもしろくない。そこで、「大和村なんだから大和駅にしろ」という声が挙がったのだろう。ところが国鉄には「大和」駅が既にあり、同名は使えない。そこで「甲斐大和」駅としたんだろう。 これが私の推測である。こうして情緒ある「初鹿野」は、現在字名に残るのみである。 しかし、まだ疑問は残る。なぜ合併から50年以上も経ってからの駅名変更であったのか? これは宿題としよう。 こんなことを考えていて、現在全国で進められている「平成の大合併」を想う。地方分権とか自治体効率とかが謳い文句となっているこの騒動は、3,000余りの市町村を2,000以下にするとかだ。この前の新潟県中越地震でも、被災の中、魚沼市などが誕生した。 問題は、「名前」である。合併の当事者(市町村)の規模の大きいところが主導権をとる傾向にある。同規模の場合は、自分に有利な名前をそれぞれが主張する。それだけではなく、合併対象外の周辺の地域から「そんな名称を勝手に使ってはNO!」という反論まで出てくる。その挙句の果てに、地域の歴史や文化とは何の関連も無い奇妙な自治体が誕生することになる。具体的にはまた後日ここに書きたいが、この近くでは「西東京市」「さいたま市」、最近では「四国中央市」など、枚挙に暇が無いくらいである。 先の「大和村」や「甲斐大和駅」も全国に多くある「大和」を選択した理由はあるかもしれないが、何百年と続いてきた歴史や文化を感じさせるものではないと想うのだが・・・ ![]() ついでに、この村には「景徳院」(武田勝頼の菩提寺:徳川家康建立)と栖雲寺(蕎麦切発祥の地)、それと「日川渓谷」があるくらいの、あまり知られた場所ではないはずである。:・・・にも拘らず南大菩薩連嶺を目指すハイカーだけではなく、大型観光バスやマイカーの人たちが多いのには驚いた(自分自身もその一員なのだが;)。それほど極端な多人数ではなかったが、人はみな同じ想いをするようである。 そんな大和村ではあるが、旧甲州街道の宿場「駒飼(こまかい)宿」には誰も訪れていなかった。【写真⇒】 しばし、江戸や明治の時代を感じ取ることができた一日であった。 【 Tom 2004.11.15.】 |