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しまざき英治の生まれ/子どもの頃のこと/卒業学校など

【目次】(08.01.15 一部改定しました。)
年代/事項 備考
1947年6月28日八王子市元本郷町生まれる(漆原助産師) 07.07.06加筆・更新
1954年八王子市立第五小学校・入学何になりたかったか
魚とり、草野球、紙芝居など遊びに夢中
07.11.11「小学生」について加筆
1960年八王子市立第四中学校入学
バスケットボールを始める
08.01.15一部加筆・未完(執筆中)
1963年東京都立富士森高校・入学
バスケ、陸上選手、生徒会議長を務める
未稿
1970年中央大学法学部・政治学科に入学富士森高校バスケット部(女子)のコーチを務める。後楽園食堂(読売ジャイアンツロビーなど)、赤玉ふとん店、栗田書店などでアルバイト 未稿
1970年、三鷹市役所に入職(18期)
係長管理職手当て撤廃闘争、立川基地自衛隊移駐反対闘争、70年日米安保反対闘争、沖縄基地返還闘争などに参加する中で、労働者運動・人権擁護運動・市民運動に目覚める
未稿
19994月三鷹市議会議員に当選
⇒現在に至る
趣味/嗜好品/家族
参加研究団体・運動
10  7つの約束<リーフレット㊢>
平和憲法を市政のすみずみに生かします
高齢者福祉サービスをさらに充実させます
子どもたちの願いを市政に
共に生きるまちづくり
市民自治を発展させ公共サービスの質を確保します<議会改革>
いのちが大切にされ、安心して生活できる地域社会
勤労者への支援策の充実と暮らしを守る
2003年の約束の到達点
しまざき英治の誓い

1947年6月28日 八王子市元本郷町に生まれる

 生まれは1947年6月28日です。
 その前年、父(2007年8月6日、入院先・永生病院で永眠。享年99歳)が上海海上(炊事当番兵として従軍したが、上陸することなし)から帰国(4月3日/父はすごい“お土産”を持って帰って来た=マラリヤ:夏、急に震えだし、布団で、兄弟でおさえたことが2度ある)、母(1970年4月3日60歳で病死・永眠)は八王子市大空襲の中、兄(1942年生まれ)、姉(1943年生まれ)を抱きかかえ、水道局(八王子市元本郷町に在る唯一のコンクリートの建物)などに逃げ込んだりしながら戦禍を逃げ延びた。おかげで私が生まれた。

○ 小学生の頃、中村高一さん(故人、日本社会党衆議院議員・東京7区、父は7弟妹の長男、尋常小学校を卒業すると彼の生家に奉公した)が、選挙の時オート三輪に乗って遊説をしていました。街角に立ち止まって、演説を聴いた。子ども心なりにも「貧乏人の味方、オレんちのことを言っている。戦争に反対している」と思った。今の憲法に対する思いはその頃から培われていったのだと思う。

小学生の時のこと>
○1960年 八王子市立第五小学校卒業


 父に連れられて、入学式前に学校に行った。色のカードを見せられ「何色ですか」と質問された。「ぐんじょういろ」と答えたことだけ、覚えている。
 1年生の時は、平屋の校舎、一番北東で、便所が別棟だが、隣だった。1年4組、担任は、漆原としお先生(後に先生のお子さんとも中学校で出会う)。ガ体が大きい人で、なんと私が生まれるとき、お世話になった助産婦さんのお連れ合いであった。
 2年からが、田中喜八郎先生、5年が吉光先生。6年生は、福原シズ江先生(姉の卒業の時の担任でもある)、近くの都営住宅(1954年完成?)の4階に住んでいた。ニックネームは“キリン先生”、背が高く、スラッとしていることから付けられたらしい。
 校長先生の名は、トンと思い出せない。卒業の時は忍田校長だったかな?副校長先生は覚えている。授業にもきた。誰かの代行で来たのだが、「お茶碗ぽっくりこ」という創作話をしてくれた。釣りバンドをして、ラジオ体操は元気いっぱいやっていた大木先生である(後にお子さんと高校でバスケットボールを一緒にやることになる)。
 小学校で覚えていることは少ししかない。

■あの曲に合わせて、旗の上げ下げをした

■××をもようした時、便所に行くのがイヤで家に帰るまで我慢した。時々…(秘密)

■二宮金次郎が薪を背負って、本を読んでいる銅像があり、その近くに何かをまつっているモノが建っていた。

■授業で覚えていることは、田中先生が、軍艦マーチを歌いながら、(くちくかん、じゅんようかんと言って)軍艦の絵をかいて、大砲を撃ち、敵を沈める話。
 その先生に連れられて、船田山(ふねだやま現在は宅地開発されて、里山の面影はわずか)に何度も何度も行った。あるとき、この山で清水栄司さんがスズメバチに刺された。みんなかけあしで山を下り、先生は彼を抱きかかえて学校に戻った(治療を受け、無事)。
 音楽の授業では、ハーモニカで沢山の曲を奏いた。4年生の時にベース入りで吹けるようになった(選科の先生は男生で吉野さんといったかな?記憶は定かではない)。ハーモニカは今でも“旅の同行人”である。

■だるまストーブの当番があり、石炭を採りに行く、大きな石炭を採ることが目標で、比べあった。なかなか燃えつかず、煙だけが教室に漂っていた記憶がある

■給食:、ミルク(ときどきチョコレートミルクがあったがこれはおいしく飲めた)を飲むのに苦労した。銀リスマーガリン、コッペパン(時々あげパンがあり、これが美味しかった。今でも好物の一つ。家で食べることはなかった春雨汁は大好き。給食当番が大好きで、作ってくれた白衣を着た調理の人々の笑顔、優しさは忘れない。いい香りが調理室からあがっていた。

■同窓生が、東門を出たところで、トラックにはねられ死んだ。轢かれた直後にランドセルを背負って、事故現場を通ったのでおぼえている。
 冬場の登校時に氷の塊をけりながらゆき、無事氷を校庭に運んだら優勝、下水溝が所どころにあり、そこに落としたら、その時点で失格・負けたことはある。だが落とした記憶はない。コマを掌に載せながら登校もした。
 下校時は、遊び(ふざけ)ながら帰ったことが多い。ほとんどそうかな(笑い)。校門を出て、5分ほどの所で、道路の中央よりに出た瞬間に、オートバイにはねられた。はねた人は、父の仕事・織物関係でナカさんとかチュウさんとか呼ばれている人だった。はねられた瞬間は全く覚えていない。多分頭を打ったのであろう。

 低学年の時は、久保さんや細野さんのうちによった。時には西八王子駅近くの酒井さんのうちにも行った。色白で卵形の顔をした、おとなしい男だった。彼の家の近く、駅前で機屋をやっていた母方の親戚で鈴木という家があり、しばしば立ち寄った記憶がある。
 高学年時は山口さん(家とは全く逆の方向、お父さんは京王電鉄に勤めていた。彼から、電車の話を聞くのが楽しみだった)、学校の北側の船橋さん(清秀さんといったかな?)、千人町の秋山さん(現・山梨中央銀行の近く、彼は野球が上手で、甲州街道で、級友たちと三角ベースをして遊んだ記憶がある)、野口さん(お父さんは中京大学の先生をしていた)のうちには、しばしば上がりこんで、江戸川乱歩の「少年探偵団」シリーズを読ませてもらった 。読み切れなくて何度も借りていった。お母さんが入れてくれた飲み物、お菓子が美味しかった覚えている。

 卒業間じか、沢山のクラスメートと一緒に女生徒の向井さんのうち、正門を出て50メートルくらいのところにゆき、劇の練習(?)をした。お父さんは「そうちょく」さんという人だった(後に中学校で漢文を教えてもらった向井宗直先生である)。後にも先にも女子のうちに寄ったのここだけ。劇は苦手なので、一人静かにしていた。かように、寄り道をして下校した学童であった。

 紙芝居の時間があり、自分で選んだの読むのだが、「高野長英」だけ、覚えている。脱獄、顔を薬で焼いて逃げてゆく長英に共感を覚えたが、怖い話だった記憶がある(後に、西口克己さんの「高野長英」吉村昭さんの「長英逃亡」を読むが、子どもの頃の記憶と<徳川政権はなぜ倒れたか>を教えてくれた当時都立玉川高校の辻確先生から、経済学を学んだことがきっかけになった)。

 紙芝居は好きで、多賀神社の近くに紙芝居やさんがきた。クイズを当てるのが得意で、(只見で)何度も水あめや、梅ジャムなどごゴホウビをいただいた。とうとう、紙芝居屋のおじさんに口封じをされ、太鼓をたたいて、子どもたちを集めてくる役割をさせられた。大きな太鼓を抱えて、“ドンドンドンのドンちゃっちゃっちゃっドンガドンガ ドンちゃっちゃっちゃっ…”とやった。
 そして、次の場所に先回りして、そこのグループの子らにクイズの答えを内緒で教える“悪ガキ”もやった。きっとそんなことは、おじさんは百も承知だったのだと思う。福島さんという人だった。

■運動会
 6年間のかけっこで「3」が最高、大体「5か6」で、(故)枝雀師が話の枕に使った「一番後ろなの走りながら後ろをみるんですねぇ~…」のくちだった。でも運動会は大好き。普段は、兄からのお下がりのような服を着ていたが、運動会となると、真っ白いパンツ・シャツ・運動足袋(日吉町=近所にある“松屋洋品店”(同期生の松本さんの家)に母と一緒に行き買ってもらった)、紅白の鉢巻(家で内職で作っていた)、これが新品で気持が良く、足取りだけは軽快に学校に行った。
 運動会のもう一つの楽しみは、昼食だ。お弁当を持っていくのだが、我家は、前の日に母から、「油揚げは○○で○枚、かんぴょうと海苔は○○で買ってくるんだよ、気をつけていっておいで」言われ、渡されたお金を持って、自転車に乗って八王子駅の方まで買いに行った。今思えば、母は同じように言われて、海苔やかんぴょうなどを買う、お使いに行っていたのかなと思う。
 昼休み、母が、手ぬぐいを頭にかむり、もんぺ(工場で働いている姿そのまま)で、風呂敷包みをもって、私を探して届けてくれた。着飾っているお母さんたちが多い中、母は黙って家に帰っていった。母が学校に来たのは、運動会の時だけだったのではないかと思う。清水さん、秋山さん、野口さん、山口さんのお母さんがゆで栗や梨、チョコレートなどを分けてくれた。これは、実に美味しかった。

             小堺百子作:草刈

 神田川べりの草を刈る夫婦、その傍らでなにやら遊びに興じているのは孫だろうか。安心して遊んでいる構図がとても良い。また、リアカーが時間のゆっくりさ、落ち着きをかもし出している。神田川の水も優しく流れている。 百子さんの作品の中で、5本の指に入るお気に入りの一つ。


 遺族の方が、「雨喜び」「秋興」「井の頭の秋」 大作3点を三鷹市に寄贈されました。 牟礼老人保健施設 「はなかいどう」ロビーに展示中です。

はなかいどうhttp://www.mitaka.or.jp/rouken.htm
交通地図: http://www.mitaka.or.jp/koutuu.htm


■遊び、いろいろなことをした。
◇独楽回し(掌に載せ鬼ごっこもした。

◇パース(面子のことを八王子市ではそう呼んだ)。厚さというのがあり、親の指定した枚数を出し合うか、又は同じ厚さを出す。それを表面を上にして重ね、あったまま並べます。親から、重ねた表面を自分が気にいっている一枚で打ちます。それを順番に行い、裏かえされたもの2まいがくっつき、1枚が離れたものをつくるとその人が勝ち。逆に全部裏返しにして、表2枚がくっつき、1枚が離れたのを作るとそれでも勝ちになります。その場にあるものが全部勝った人のものになります。大概は一対一で勝負しました。
註:負けたはことなかった。勝ったものは持ち帰らず皆に返した。

◇ビー玉遊び:
1)立った姿勢で、上からビー玉を落とし、命中したら勝ち、自分のものになる。
2)出しっこ:長方形の玉置場を作り、親の指定した数を出し合う(最初の親も順番もじゃんけんで決める)。
 玉置場の横の一辺の延長線がスタートライン、そこから5メーターほど先に並行線を引きます。そこをめがけて大きい玉を転がし、その線に一番近い人が一番の攻撃権を得て、玉置場にある小玉を打ち出しにかかります。その際、玉置場に大玉が入ったり、ひっかかると“死に玉”となり攻撃権は失います。
 また、大玉に当てると連続して攻撃権があるというルールもありました。

◇ちょんぱ
◇「おっさん何ぼ」:馬まで何歩か提案し、踏み切り選からその本数で飛び、馬とびができれば合格



この子らの未来を戦世にしてはならぬ。


生まれ里の近くに流れる淺川。ここでとった魚、沢蟹、しじみ、ザリガニをが自分の骨格になっている
♪今日、小学校を卒業していくあなたへ♪
                                                             作詞・作曲 定塚才恵子
                      (C)Saeko Joduka

6年前の春 同じように座って
キラキラする目で見上げていたね
椅子もランドセルも すっかりちっちゃくなった今
   あのときの気持ち 覚えてるかい

あのとき母さんは
後ろの席に座って そのまた6年前のこと思いだしてた
激しい痛みの終わりと同時に 生まれてきたあなた
   「ようこそ」って頬擦りしたよ

でもそれからは闘いのような毎日だった
イライラをぶつけたり 寝顔に「ごめんね」って謝ったり
そうやって迎えた入学式の日 ようやくここまできたねって 胸熱くした

それから6年 今目を閉じると どんな光景が浮かぶだろう
きっといろいろあったよね うれしこと 悲しいこと 辛いこと
もしかしたら思い出したくないこともあるかもしれない

でも その1つ1つがいまのあなたにつながっている
その1つ1つが今のあなたをつくっている って思うよ

あなたの4倍も生きてきた私
今も迷ったり悩んだりしてるよ
生きてる意味が見えず 自分が大嫌いで
   もだえたり苦しんだ夜もたくさんある

偉そうなことなど何1つ言えない私だけど そんな中で
   少しずつ少しずつ気付いてきた
ダメなとこもある私だけど 誰にも代われない私
  誰にも代われないあなた
だからかけがえがない

あなたの人生はあなたのもの
あなたは誰の手足でもない
休んでもいい 立ち止まってもいい
「助けて」って言ってもいい
  自分の思いのままに生きていい
それぞれの思いを声高らかに語り合いながら
   いっしょに生きてゆきたいね

いま「おめでとう」の言葉より
もっと あなたに伝えたい私の思い
それは

生まれてくれて ありがとう
こんなに大きくなってくれて ありがとう
生まれてくれて ありがとう
こんなに大きくなってくれて ありがとう

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孫の虎太郎です。

島崎藤村像(08.6.28義父・富造の卒寿祝いの旅行)


1957年、品川区で(同区提供)/「東京新聞」7月15日『東京慕情41』より
◇馬のり遊び:馬とび遊びとも言う。 木の電柱を背に馬に親が立ち馬を作る<できるだけ長くする>。その馬にもう1チームが順番に乗る。跳躍力のある子が先に飛ぶ。しばしば勢いあまって落ちてしまうこともあった。全部乗り終わる前に馬がつぶれると負けで、また馬になる。乗る方が失敗するとその時点で交代し、馬になる。
全員が載り終わると電柱を背にしている子と先頭の子がじゃんけんをする。
全国でこの遊びははやったそうである。テレビも普及していない時代、誰がどのように伝えて行ったのだろうか。
註:背骨をいためるというので、禁じられてしまった。

◇ドッヂボール
◇おしくら饅頭
◇三角ベース野球など草野球
◇魚とり
 1年中やった。
 「ただ今」という声が先か、ランドセルを置く音が先か、もう魚とりの道具を持って、淺川や中ぼり(田んぼの用水ぼり)に向かった。
 春先:はや(アカハラ)とり。時々、“よせ”を作って、コロガシで釣っているひとが数人いて、顔見知りのおじさんの手伝いをした。子持ちのアカハラを分けてもらって、家に飛んで帰えり、七輪で焼いて家族で食べた。

 初夏:中ぼりの小鮒や泥鰌とり。
 真夏:あんま釣りでハヤ、オイカワをとる。間違って鮎がかかったことがある。
 これは、中学生ないなってからのことであるが、台風の2日後くらいにひとりで大水の後の淺川に行く。えぐりとられた岸辺の猫柳や萱の根本に寄っている大物の鮒狙いである。自分で作った渋打ちした網(“サゼ”と呼んでいた)でとる。25センチほどのいい形をした鮒やハヤが取れた。

秋:魚とりをやめてイナゴとりをした。これを2~3日袋に入れたままにして糞をしらせ、炒って食べる。晩秋になると交尾をしたメスを朝露がある内に、休耕田の草にとまっているのつかまえる。黄色や赤や紫に色づいているのですぐわかる。しばしば袋の中で卵を産んでしまうこともあった。良質の蛋白でいっぱいのこのメスが大そう美味いのである。これも大いに私の骨格になっている。
 稲刈りの頃、用水ぼりの水は淺川の堰のところで切られれる。たまりになっているところの鮒を取るのもこのとき。水が涸れると、堀の土のところに穴が開く、そこに泥鰌はもぐり、越冬するのだが、その泥鰌取りは楽しみであった。何しろたくさん取れる。時には、日干しになってしまった鮒を見つけることもあった。
 この泥鰌、大きなバケツに入れて、しばらく泥を吐かせる。そして、味噌汁にして食べる。ダシは要らない。アブラがのっていてとても美味しい泥鰌を食べる。養殖ではとても味わえない。1週間に3度ほど泥鰌汁になるが、うまい うまい!

冬:しじみ取り、沢蟹とり。年明けの2月頃だろうか、“かじっか”をとる。北淺川の清流の水はものすごく冷たいのだが、石の裏に卵が産み付けられている。これをはがし、食べながらとる。これは、塩をふり、七輪で焼いて食べた。生臭いが乙である。

 とってきた魚は盥にいれ、一緒に行ったメンバー全員で分け合う。6人いれば、じゃんけんで勝った者が、自分の好きなものを選ぶ。6番目まで行くと、今度は6番から逆に選んでゆき、トップまで戻る。そこで、またじゃんけんをして順番を決める。それを繰り返し行い、それぞれ家に持ち帰る。
 私の場合は、威勢のいいのは小さな池に放し、死んだものや威勢の悪いの焼いて食べた。だから今でも川魚は好物なのである。

エピローグ:川魚取りは、高校2年生までやっていた記憶がある。北淺川にあった「つるまき」はいわば釜と呼ばれるところがあった。陸は木が何本か生い茂り、城山川(アブラバヤの生息地で、蛭も多く、滅多に魚とりはしなかった)が合流し、渦を巻き、緑に近い色をしていた。最深部は4メーター以上あったのではないかと想像した。大人たちや兄ちゃんたちから「近寄るな」と言われ、危ないところだと思っていた。
 真夏、大きい兄ちゃんたちがたちが、順番で木の方から“ドボン、ドボン”を繰り返していた。あるとき、同期のMさんの兄ちゃん(姉と同期)、運動神経が抜群で“カッパさん”と呼ばれていたような気がする。ある日、水道局の裏の方(南淺川と北淺川の合流点・堰があった)へ救急車がいった。珍しいことであった。それは、私の家の北側の方は、畑と田んぼでFさんとその後越してこられたU人形店しかなかった。南朝川沿いには水道局より少し上流、H織物工場、H捺染工場、U織物、S染物工場、O糸店、O織物工場があrったが、水道局の中に市の公舎があるだけで、付近には当時、人家はなかった。
 後に聞いた話だが、ツルマキでこの“かっぱさん”が心臓麻痺を起こし、死んだと伝えられた。暑い日であったと記憶している。
 私は、小学校に入学する前の年、台風のあと兄に連れられて、淺川に魚とりに行き、兄と手をつなぎ、(怖いので嫌がった)おそるおそる川を渡ろうとして、石につまずき、激流の中へ…。一瞬もがいたが、後は記憶がない。気がついたら、河原に寝ていて、たくさんの顔があったように記憶をしている。このことが原因なのか泳ぎはダメなのである。お影で、社会を泳ぐこともできない。

◇蝉のコマ(羽化する前の幼虫が地中にいるうちに独特の小さな穴を見つけ、そこから引っ張り出す。)探し、蝉取り。
註:蝉を一番つかまえやすいのは、鬼蜘蛛の巣を針金の輪に貼り付け、とまっている蝉の羽にそれをつけてつかまえる。但し、午前中まで。陽に照らせたり、雨にぬれると粘着力はなくなり、使い物にはならないから。魚釣り用ののたも網でもよくとれた。

【嶋ちゃんの一口メモ】 担任のS.F先生は、健在で調布市にお住まいとのこと。

<中学生の時のこと>

○ 1960年、4月八王子市立第四中学校に入学。
 桜が満開に近かった記憶がある。父に連れられて入学式に行った。校庭で入学式が行われた。
 1年4組、担任は荒野先生(現代国語)だった。担任の指名で私とMさんが代表委員、JさんとSさんがクラス委員になった。
 小学校時代には学級委員などしたことはなかった。クラスの活動に自分から積極的にオンドをとったりしたことはなかった。むしろ引っ込み思案であった。自分にそんな大役が務まるのか、まったく自信はなかった。

 小学校の同級生のKさん(幼馴染)と一緒にバスケットボール部に入ることにしていたが、練習風景を見学して、入部をためらい、何部にも入らなかった。第七中学校がこの年新設され、第五小学校は二つの中学校に分かれて入学した。それでも校舎建設が間に合わず、午前・午後の二部授業だった。午前中で授業が終わるときは、淺川などで魚とりをして遊んだものである。敗戦後最大のベビーブーム・団塊の世代の最先端の者は、大方このような経験をしているのではないだろうか。

 夏休み直前、小学校1年のときの同級生のKさんと一級上の近所のIさん(お父さんは日本の歴史上の人物)に誘われて、ブラスバンド部に入った。楽器磨きを上級生からさせられたのを覚えている。トロンボーンを担当させられた。夏休み1級上の同じくKさんに、訳も分からず叱られ、しごかれた。夏休みの中ごろから、練習に行くのがいやになり、サボり魚とり三昧ですごした。そして、そのまま退部。Iさんはピッコロの名手、同期のKさんはトランペットの名手になっていた。その二人に退部の理由は言わなかった。

 秋の運動会、ロードレース、バスケ部に入った1年生は、早かった。活躍する姿を横目に見て、とてもうらやましく思えた。12月、バスケ部のKさんがまた誘ってくれたので小学校卒業間際に彼と約束したことを果たし、入部した。1960年12月15日のことである。
 身長144センチ、ゴール下のシュートがリングに届かない。先輩が私だけのメニューを組んで、シュートはゴール下の練習のみ、ランニングシュートもドリブルシュートもお預け。リングに届かないのであるから当たり前のことだが、悔しくて、何とか入るようにと思いながら練習を繰り返した。上級生が2対2、3対2、5対5をやるときは、1年生はコートサイドで“ナイッシュー”と大きな声を出す。
 冬休みに入る前頃にはボールがリングに届くようになり、シュートも決まるようになった。
 母は、バスケットボールをすることに賛成ではなかった。兄や姉は家計の助けと思ってアルバイトをしながら高校に通い、兄は高校卒業と同時にT社に入職し(会社の労使紛争で出勤せずに賃金はもらっていた)、中央大学(経済学部)の夜間部で勉強した。

 母は「アルバイトをしなさい」と私に厳しくいった。冬休みに入る直前に父に連れられて「K成果店」に行った。店主と父がなにやら話していた。3日後からその八百屋さんで働くことになった朝7時前には店に行き、リヤカーに乗って市場に行き、仕入れたものをリヤーカーに積み込むと、店までリヤカーの後ろを押してきた。荷おろし、店頭への品物並べを手伝う。それが終わると、正月用の野菜として、樽に入ったサトイモを、洗う、にんじん、ごぼうを洗う。昼食と夕食は八百屋さんが食べさせてくれた。店には、小学生の男の子が二人いて、彼らにバカにされながらこらえて働いた。夜7時過ぎまでそうした仕事をした。
 3日ほどで手にあかぎれができた。大晦日は遅くまで働いた。りんご箱を壊して焚き火にするのだが、あのオレンジ色の日が懐かしい。冷え込んだからだが暖まってゆく。焚き火の中から焼き芋を取り出し、食べさせてもらった。新年は4日~7日まで働いた。そして、店主から渡されたのは“50円”であった。

 新学期、身長も150センチになろうとしていた。ゴールしたのシュートは、早めに行って、練習した。よく入るようになった。そしたら「特別メニュー」もなくなり、1年生の中に一緒に入って練習をさせてもらえるようになった。背番号44の黒のランニングを与えられた胸には「八王子4中」とあった。ところが、1月の末、流感がはやり、1年4組はいち早く学級閉鎖、練習にいけず、自宅待機が続いた。、ある日、吐き気がとまらなくなった。扁桃腺肥大で8月と2月に高熱を出し、寝込むことが多かったので、風邪で扁桃腺を腫らしたのか思っていた.のだが,転地が逆さまになるほど気分が悪くなり、胃液も吐ききってしまったほどである。近所のかかりつけのお医者さん(Y医院)に往診してもらった。しきりにお腹のあたりを診ていた。そして福丸医院に紹介状を書いてもらい、父と一緒に福圓医院にいった。誰かの車に乗せてもらったのか、それとも父の自転車の荷台に乗っていったのかまったく覚えていない。

 福圓医院につき、医師は私や父から症状を聞くと。私を寝台に寝かせ、お腹のあたりを押して、「ここはどうか?」「こっちはどうか?」といって触診する。いきなり医師の力が加わったので「イテッ!」と叫んだ。そしたら医師は、「モウチョウ」と診断を下した。麻酔を打たれ、次第に意識は朦朧となってくる。下腹部を剃っているいるような音がかすかに聞こえる。全身裸にされているようだが寒さを感じるどころか、“ぽかぽか”してくる。
 手術は始まっているのだと思うが、おなかの辺りで、爪を切っているような感覚はあるが、痛みは全く感じない。やがて全く意識を失った。
 気がついたら、父がベットの脇にいた。「英ぼう気がついたか、どうだ?」と声をかけられた。「うん」と頷くのが精一杯であった。2時間ほど経過した頃から、手術の後が痛いのなんのって、これまで感じたことの無い痛みが襲ってきた(これを断腸の思いとでもいうのだろうか)。「痛いよー!痛いよー!」と泣くというよりは、叫ぶというか、わめくというか、痛みを訴えた。父が、医師を呼んできてくれた。痛み止めを打ってくれたのであろうか、次第に痛みがうすらぎ、眠ってしまった。
 気がついたら朝陽が射し込んでいた。父が椅子に座っていた。「どうだ痛くないか?」と具合を聞いた。「少し痛むけど大丈夫」と返事した。徹夜で看護してくれた。

 1週間ほどで、退院した。流感はまだおさまらず、休校になっていた記憶がある。3週間ほど自宅安静にしていた。欠席は1週間くらいだったのではないだろうか。学校に行ったら、クラスメートから「シマどうしたんだよ」ときかれたので、入院・手術の顛末、手術前にアソコの毛を剃られたこと((笑い。これがまた術後に響くのでこらえるのに苦労した)、看護婦さんから「ガスが出ましたか?」ときかれたことなど一部始終を話した。当時、「盲腸の手術後3ヶ月は激しいスポーツは厳禁」とされていたので、バスケの練習は、させてもらえなかった。やっとゴールしたのシュートが入るようになったばかり、4月から新1年生が入部してくるというのに、気持はあせるばかり。練習着に着替えて、練習は見学、声だけ出して、同期生を激励した。
  
続きがあります。

生まれ里の近くに流れる浅川、
遠方は大嶽山(左から二つ目など)奥多摩の山々



子どもの頃の原風景(とんぼ写真展。佐賀市清掃工場会議室に展示してある。07.10.02撮影)

 一旦は通り過ぎたが、「日南、猫ちゃんが気持よさそうにねていたね、写真に撮ろうか」、「うん!」。
 日南も感心したのかじっと見ていた。器用に気持よさそうにねている“我輩は猫である…。”かな。
(2008年8月7日、新川保育園からの帰り)



顔をよく見ると黒光りしてなかなか精悍である。この池の“ボストンボ”だという風格も備えている。近づいてもピクリとしなかった。(2008年8月2日三鷹市牟礼にて)



鳳仙花(2008年8月2日三鷹市牟礼にて)

 赤いほうせん花 お庭に咲いたよ
 灼けつく夏の日 暑さも知らずに
 かわいい娘は 爪先染めたよ
 
 赤いほせん花 お庭に咲いたよ
 やがて夏去り 秋風吹けば
 ほうせん花種蒔け 遠くへはじけよ

注:アジア太平洋戦争中、朝鮮半島で抗日歌としてうたわれ、現在も熱愛されている。
○1963年 八王子市立第四中学校卒業(14期生)

○1963年 東京都立国立高校を受験(体調を壊し)、不合格。定員に満たない富士森高に入学。バスケットボール部に入部。1年生からレギュラー。3年の時にキャプテンを務める。生徒会議長(常設、3年生の時)に就任。
1966年 東京都立富士森高等学校卒業

1970年3月 働きながら中央大学法学部(Ⅱ部)卒業
同年 11月 三鷹市役所入職
○1999年1月 三鷹市役所退職

 その間、労働組合の役員を務め労働者の権利擁護と労働相談を実践。市民とともに反戦・平和運動、福祉、人権、環境問題に取り組む

   ・三鷹市心身障害者福祉対策市民会議委員
   ・三鷹市個人情報保護委員
   ・武蔵野市公害対策懇談会会員   などを務める
◆何になりたかったか

①小学生のとき:プロ野球の選手になって、お父さんお母さんを楽にしてやりたい
 ※作文に書いたので、しばらくは父母からそのことを  言われた

高校生の時:中学生のときは、1年の12月15日から始めたバスケに夢中、なにになるかなんて考えもしなかった。1964年東京オリンピック後、父は事業(織物関係)に失敗し、当時700万円ほどの借金を抱える。2年の秋、絶望し、勉強をしなくなる。O先生(担任)や兄に激励され、再び進学の勉強を始めてのは3年の夏休み…「学校の先生になって好きなバスケを教えよう」と思い、国立のKとTを受けたが、見事不合格。兄の「入学金は出してやるぞ」の一言で、中央大学の夜間部を受験。その日は、富士森高校の卒業式当日、O先生に一言告げて、級友には何も言わず欠席。好きなJにも何も言うことも出来ず卒業していった。


③大学時代:4年間の内、3年間は学園紛争でキャンバスに入れず。新聞社、出版社を受けたがダメ。家に戻ると母が寝込んでいた。父の話では「子宮癌、後半年」ということであった。大塚の癌研に入退院、母のオムツの世話をしたこともあった。
 70年の正月明け、癌研までゆくタクシー代がないのと母は車酔いが酷いこともあって背負って電車に乗った。元々小柄な母、その上に癌に蝕まれ、20キロほどのリュックを背負ったくらいにしか感じられなかった。
出勤途上のサラリーマンが「どうぞ」と言って席を譲ってくれた。このときのありがたさは生涯忘れられない(その方は今はどうしているだろう)。
 宣告より2ヶ月長い4月3日、「おとうさんよー!」と最期の言葉を残し、その夜、他界した享年60歳のことでした。

④大学卒業後:母の死を契機に「もう一度何になろうかと真剣に考えた。大学で何を学んだのかあまり覚えてはいない。ただ、文学で大場教授が出題した試験問題(小林一茶に関ることだったと)に対して、答案用紙に大きく「×」を付け、『私は、先生からこのようなことはお教さわらなかったし、学びたいとも思わないと但し書きして、勝手に設問して、勝手に解答を書いた。なんとそれでも「優」であった。「大学というところは[1+1
=2]でなくてもいいんだ」ということを知った。そのことは大学で学んだ一番の成果だと思う。政治学を専攻したことから少しでも役立つところとして、三多摩の5市役所を受けた。すべて合格したが、最初に通知が来た、三鷹市役所をアルバイトをしていた八王子市役所の社会課の人たちが「嶋三鷹へ行け」というので言われるまま、三鷹市役所にお世話になった。
 ゼミのI教授に「留年してもう少し勉強したい」と相談したら、「ここ2,3年大学に残っても変わらないよ。本当の勉強は、社会に出てから始まるから、卒業したまえ」と言われ、「ハイ」と二つ返事、素直に従った故に今日に至っている。

⑤現在:やりたいことは一つある。それは○○○○です。
 ヒント:私の拙サイトをみてください。ほとんど毎日、「日記-今日のできごと」を更新しています。
http://www1.parkcity.ne.jp/shimayan/kyounodekigoto.htm

◆川柳/狂歌/冗句を内里美灯(うちりび・ともし)名で詠むこともあります。時々立ち寄ってみてください。

◆時々三線を弾いきながら思うこと―土 生命の創源/川 生命の流れ/海 生命の古里/空 生命の夢/森 生命の癒し/山が病んでいる。 間伐して森を復活させよう―明日は世界中の子どもたちが安心して陽の光を受けられ、暖かい布団の中でぐっすりと眠ることができるように祈ります。

丸池公園(2008年9月8日、夕方「市政レポート」No.98などを歩スティング中に撮影)
 <議員になってから>
○1999年4月 三鷹市議会議員選挙、初当選(1685票)
  2003年4月 三鷹市議会議員選挙、再選(1732票)
○民主市民連合(6人会派)に所属・幹事長(04年1月31日まで)
 ※05年3月18日、二人が会派離脱したため、4人会派

 ※07年1月31日、一身上の都合で民主市民連合を離脱、会派・「自治市民21みたか」を結成
○2007年4月22日 選挙/連続3期当選

<歴任した役職>
◇所属常任委員会、特別委員会など

★総務員、建設委員会・副委員長
 ・議会運営委員会・委員長
 ・決算審査特別委員会副委員長、予算審査特別委員会副委員長
 ・基本構想審査特別委員
★調布飛行場跡地利用特別員会委員(2年)
★東京外郭環状道路調査対策特別委員会委員
★三鷹駅前事業対策特別委員会委員(05.5.19~07年4月)
★三鷹市まちづくり推進委員会委員 

☆徳間記念アニメーション文化財団・評議員
三鷹市社会福祉協議会・評議員(99年5月~07年4月)
☆国民健康保険運営協議会委員
   (07年3月28日、本会議終了後、一身上の都合で辞職)
☆株式会社まちづくり三鷹助言者会議委員(05.5.19~)
★ふじみ衛生組合議会議員 ※07年1月31日、一身上の都合で辞任

を歴任

 ★07年1月31日 民主市民連合を離脱。同日付けで『自治市民21みたか』を結成
※民主市民連合は同日会派名を『民主党』に変更。

【説明】
<理由>:06年12月議会に市長から提案された
 2006年三鷹市一般会計補正予算(案)
http://www.city.mitaka.tokyo.jp/a014/p002/pdf/t00200045021.pdf
(第2号/学校給食4校の民間委託、保育所の民間委託など債務負担行為が伴っている)について、総務委員会で賛成しなかった。それは、会派の決定とは異なったため、会派内でこの問題について協議してきました。
 最終的には髙谷幹事長に私の取り扱いを一任しました。その結果、
1)最終日(1/22)本会議の採決では退席する
(決結果一覧をご覧ください。
http://www.gikai.city.mitaka.tokyo.jp/activity/pdf/
2006custom4giantou_saiketu.pdf


2)07年1月31日付けで会派「民主市民連合」を離脱する。

 7年9ヶ月「民主市民連合」の一員として、活動させていただき市民の皆さんのご期待に応えてまいりました。皆様のご指導・ご支援に心より感謝し、御礼申し上げます。
 今回のことは、会派の決定とは異なった対応をとった私自身の行動から起きたことです。その間の事情をご賢察いただければ幸いです。また、民主党の市議3人への変わらぬご支援をよろしくお願いいたします。
 しまざき英治への変わらぬご指導・ご支援を心よりお願いいたします。
 尚、ふじみ衛生組合議会議員について、「会派枠選出」ということなので、一身上の都合で1月31日付、辞任いたしました。
 7年9ヶ月にわたり、拡大生産者責任によるごみ処理方式の追求、レジ袋の削減などごみ減量化、報酬の見直し、新ごみ処理施設問題などについて、質疑、問題提起をさせていただきました。充実した活動ができたことを、関係各位の皆さんに心より御礼いたします。ありがとうございました。

 また、国民健康保険運営協議会委員についても一身上の都合で辞職いたしました。国民健康保険事業が法第1条に謳う社会保障として 、市民の皆さんのいのちと健康を守るセフティーネットとなるよう奮闘してまいりました。
 今後も引き続き、税制改悪に伴い、市民の国民健康保険税負担が重くなっていることを重視し、社会保障としての医療保険制度となるよう努力してまいります。

 
 ★07年5月11日  会派:「にじ色のつばさ」を結成
 ◎幹事長:嶋﨑 英治
 ○副幹事長:半田伸明(08.4.17~)
 ☆会計:野村羊子
   議席番号 15:嶋﨑 英治 16:野村羊子 17 半田伸明 

 ★総務委員会・副委員長(09年5月20日まで)
 ★厚生委員
 ★議会運営委員(09年5月20日まで)
 ★ふじみ衛生組合議会議員(07.5~)

 ☆三鷹市個人情報保護委員会委員(07.5~)
 ☆三鷹市環境保全審議会委員(07.5~)
 ☆三鷹市農業振興対策審議員(99年5月~09年3月)

 ★にじ色のつばさ私たちの基本姿勢

 今、三鷹市議会では、3人以上の会派でなければできないことたくさんあり、議会活動が制限されています。一人一人の議員が尊重される議会を実現するためにも、ともに議会改革にとりくもうと、会派を結成することにしました。

わたしたちは、

・主権者である市民一人ひとりの声を、市政に反映するため

・市議会本来の役割である行政のチェック機能をはたしていくため

・市民の立場に立ち、生活に密着したわかりやすい政策提言を行うため

・市民社会にふさわしい議会にするため

・①議員同士が自由に討議する議会、②市民も参加できる開かれた議会、③情報公開し透明性のある議会、を実現するため*

一緒に行動します。

☆議案や案件への対応について
 事案に対する認識が共有できるように協議を重ねます。なお最終的に賛否の態度が分かれる場合は、それぞれの考えを尊重します。

*自治体議会改革フォーラム提唱「変えなきゃ!議会2007 私たちがめざす改革目標10の提案」第1ステップより。

○議会の会派順(質問の順番などを決める)について協議があった。構成員の人数(比例配分)による順番は止むなしとしても、同数の場合は、対等平等であるはず、したがって、会派順は“じゃんけん”又は“あみだ”で決めるべきであると主張した。
 今回は「諸派」はなく、我が会派も、三鷹市議会民主党、日本共産党三鷹市議団いっずれも4人であることから、上記の主張を会派代表者会議で主張をした。
 昼休み休憩、再開後、「議員一人ひとりは対等・平等である。会派も比例配分を前提としながらも対等・平等であることの確認を求め、政新クラブ―公明党―民主党―共産党―にじ色のつばさを承認した。(2007年5月)

◇所属委員会、行政委員など

  □三鷹市議会厚生委員会
  □ふじみ衛生組合議会議員
  □三鷹市個人情報保護委員会委員
  □三鷹市環境保全審議会委員
  □三鷹市農業振興対策審議員
(09年3月まで)

☆☆☆☆☆
活動・研究・参加団体

  □障がい者と共に生きる情報ネットワーク
   ※差別のない社会を目指す仲間たちのネット
  □日本納税者連盟(不公平税制をただす会会員)
  □自治市民21みたか(代表)
  □自治体議員連合 
  □憲法を記念する三鷹市民の会
  □憲法を生かす会(関東連絡会幹事)
  □9条ネット

  □みたか9条の会(世話人)
  □いきいきコーラス
  □新川本町町(09.4~北組組長)

  三多摩労働相談センター(顧問)
    (042-571-3731/コナイミナサンイイ)
  □東京自治研究センター
  自治体学会        
  □
環境行政改革フォーラム
  
□市民自治をめざす三多摩議員ネット
  □沖縄を考える市民の会
  □三鷹の教育を考える会
  
□顔の見える農と食文化の会
  □三鷹のごみを考える会
  □
ごみ環境ビジョン21   
  □ペシャワール会
  □議員特権廃止キャンペーン
  □「変えきゃ議会2007」自治体議会改革フォーラム

などで活動中

趣味
 ・バスケットボール 古書店めぐり 音楽  落語 つり

好きですSL-見る・乗る・聞く・撮る

◇嗜好品など
 ・果物(柿) きのこ 川魚 、ラーメン、小倉羊羹、鯛焼き、どら焼き、 バームクーヘン 、泡盛(少々) 八つ子 万願寺甘唐辛子 揚げパン すいとん 春雨汁

◇家族 
 ・妻・公代(元市立幼稚園教諭、井の頭育ち・三鷹5小卒業)
 ・子:史歩(民間幼稚園教諭)/仁玲&孫:日南(ひなた)/ 美峰&孫:虎太郎(こたろう新川)/史路

 ・父・傳吉(1909年6月生まれ.2007年8月6日,入院先の永生病院で死亡、享年99歳) 母・キミ(1909年12月生まれ。1970年4月3日永眠)  

 市民自治をめざす三多摩議員ネットの仲間のみなさんと立川駅で住基ネット反対の街宣をしました



丸池わくわく祭:バナナのたたき売り
 「バナナは2本しか食べちゃだめだよ○○○円!」 「はいっ!買った」   
  “面白買った?”




公代さん、大工哲弘さん、英治
(島唄那覇にて)


郡山総一郎さんと<九段会館5・16


    孫・日南(2003年7月4日生まれ)



孫:日南と虎太郎(右07.3.25生まれ)



08年7月4日、日南誕生日

新川保育園の夏祭りに行く前の虎太郎と日南(08年8月)
☆☆☆☆☆   
 しまざき英治 2008年の誓い。

 
 007年版 
市民の皆さんとの「7つの約束」の実現に向けて、ひたすら
 歩み続けます。頑固に平和・人権・環境・生命の守り手として闘い続けます。

国鉄闘争勝利 1047名の名誉回復を勝ち取り、労働者運動の復権を目指します。


★医療・福祉・教育の無料化を約束する政治家(政府)が出現する時、この国は生まれ変わり、人々は真に国を愛する☆☆☆未来に希望を★★★

医療費の負担増・年金の切り下げ・福祉の後退、教育の国家統制はこの国を悪くする。
少なくも医療費が無料化<税金で運営>されるとき、人々は幸せを感じ、この国を誇りに思う。


「何でも金を優先する考えは人の心を毒してしまいます。
阿波根 昌鴻著・「命こそ宝」より。
市民の皆さんとの約束 7つの基本目標
第三期(2007年~)
福祉・環境・人権・平和・市民自治
            の三鷹を市民の手で



Ilust by Chi Akiba

「ガンバレ!しまざき英治の会」(後援会)に加入してください。
会長・後藤昌次郎
(弁護士)
著作一覧:http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%8C%E3%93%A1%8F%B9%8E%9F%98Y/list.html
 このページのトップに戻る   嶋ちゃん(トップページ)へ  三鷹市議会議員・しまざき英治のページ  政策7つの約束   「8年間の成果・到達点]
三多摩市民自治議員ネット・目次  今日の出来事 日記の索引は⇒
8年間の成果・到達点と主な課題・目標
2003年市民の皆さんとの約束7つの基本目標
平和憲法を市政のすみずみに生かします 評    価
●「三鷹市平和条例」を生かし、戦争反対、平和事業をすすめます

●国民と自治体に戦争協力を義務付ける「有事関連三法案」に反対します

●非武装・不戦、絶対平和主義の憲法9条を世界に広めます

○2003年3月20日、米英軍のイラクへの先制軍事攻撃直後、本会議で、「イラクへの軍事行動を中止し、国連による平和的解決を求める決議」を緊急動議として提出。賛成多数で採択

○先制攻撃を実行する米国(軍)に追随することによって、むしろ日本がテロや戦争に巻き込まれる危険性が大きいことを指摘し、非武装:不戦こそ市民のいのち、財産を守る近道であると主張し、「国民保護計画」に反対した。

○今後の目標:憲法九条が改悪され、戦争国家に日本がなることを止めるため、更に自治体レベル・市民レベルから積極的平和施策を展開します

○国民の目・耳・口を塞ぎ、手足の自由を縛る改憲手続法に反対し、戦争国家日本への逆戻りを許さない。
 いのちが最も大切にされる市政、憲法9条と25条が暮らしに生かされる政治を求め、壊憲阻止に全力をあげる決意。
   高齢者福祉サービスをさらに充実させます
●年金制度を充実させ、高齢者増税、医療費負担増に反対します。

●介護保険の保険料利用料の引上げに反対し、介護保険制度の充実と保険料・利用料の所得に応じた軽減制度を充実させます

●高齢者福祉住宅(シルバーピア)を充実させます

●高齢者の経験と力を活用し、シルバー人材センター事業の充実をめざします

●高齢者世帯の安否確認制度を充実させ、安心して暮らせるまちづくりをすすめます
○介護保険制度の創設期に三鷹市独自の非課税世帯の利用料ゼロ制度は、度重なる介護保険制度の見直しの中で後退

○高齢者福祉住宅(シルバーピア)は、ワーデンさんの労働条件が徐々に改善され、好評

○シルバー人材センター事業拡大がはかられ、人気の事業になっている。段階の世代の知恵・パワーをどう生かすか、楽しみな課題
 子どもたちの願いを市政に
●教育基本法を守り、人権・平和教育を推進します

●三鷹市子ども権利条例を制定します

●個性の尊重とゆとりの教育、創造性をはぐくむ子どもが主人公の学校づくり、教育分権で30人学級の制度化をめざします。

●保育所、幼稚園、学童保育所、児童館、ハピネスセンター、子ども家庭支援センターなど子育て・子育ち支援支援施策を充実させます。

●乳幼児・児童の医療費負担の軽減を目指します

○引き続き、30人学級の早期制度化が学校内外から求められている。子どもは未来への投資、創造性を育み、子どもが主人公の学校づくりをすすめます。

○07年3月末日をもって三鷹市立幼稚園は、残念ながら廃園。存続を求めた17000余の署名を集めた「幼稚園交流会」をはじめ、保護者・市民は、その後のまちづくり、市政に意見の述べたり、行動派になった人もある

○子育て・子育ちへの行政の役割が大きき区問われている。安全・安心の子育て・子育ち施設を充実させます。

○子どもの権利条例の制定を8年間求め通津ッけてきたが、市のガードは固い。引き続き「子どもの権利条例」制定目指し、「子どもに一番いいこと」の施策の充実をめざします

○子どもの医療費助成の充実を実現:0歳児無料化・所得制限なし。1~5歳児無料化(所得制限1千万円、07年10月実施)。小学1年から中学3年生の医療費1割助成(所得制限児童手当に準拠、07年10月実施)。
 引き続き軽減策を求めていく
   共に生きるまちづくり 
●「障害者自立支援法」の抜本改正を進めます。障がい者雇用・福祉作業所への支援策充実で社会参加を拡大させます

●だれもが生活しやすいバリアフリーのまちづくりをすすめます

●障がい者差別、外国人差別、性差別をなくし、人権感覚が豊かな共生のまちをつくります

●男女平等参画施策を推進します

●多文化共有、国際交流活動を推進します。外国籍住民の地方参政権を求めます


The Beatles Band/The BEATVOX

Senegalのアフリカンダンス:ものすごいエネルギーの激しい踊りだった
○「障害者支援費」制度について、いち早く市議会・一般質問で取り上げ、制度の問題点を指摘し、施策のの充実を実現した。
 しかし、国の制度設計変更に伴い「障害者自立支援法」となり、大きく制度後退、障がい者の皆さんと一緒に政府・国会に制度改善を求め行動。市議会・一般質問でも再三とりあげ、三鷹市独自の制度を実現

◆課題:サービス利用1割負担
の廃止など障害者自立支援法の抜本的改正の早期実現

○バリアフリーからユニバーサルデザインへと市側の考えも前進し、市民都とともにバリアフリーのまちづくりが進んでいる

○男女平等参画条例制定(06年4月施行)

○戸籍の届出の改善、各種「申請書」など市役所の書類に対して性同一性障がい者を配慮するよう、書類の総点検を要求。

○三鷹市の公式文書・表示を「障害者」から「障がい者」にあらためさせた。
○外国籍住民への教育費援助及び無年金者への助成を実現

○自治基本条例の制定にあたり、18歳以上を有資格者とし、外国籍住民を含めることを実現し、外国籍住民の参政権を1歩前進させた
市民自治を発展させ公共サービスの質を確保しますづくり

議会改革を推進します

●住民基本台帳ネットワークシステムを中止し、個人情報コントロール権の確立と選択制を導入します

●情報公開をすすめ、分かりやすい市政と税のムダ遣いをチェックします

●市民運動、NPO、ボランティア活動への支援を強化します

●大事なことは市民投票で決めるまちづくりをすすめます

●土曜議会・夜間議会・移動議会を開催し、市民に開かれた市議会へ改革します


    
○自らのホームページや『市政レポート』で主な議案についての全議員の賛否一覧などを先行自主公開などを行い、議会の公式サイトでの本会議インターネット生中継(録画中継)を実現。『市議会だより』で全議案・全議員の賛否一覧表の掲載(最終ページ)を※実現
「変えなきゃ議会!議会改革フォーラム」の調査では、全国で87自治体議会に留まっている(07年1月末現在)

市民自治をめざす三多摩議員ネットとして、全国に議員表彰制度の廃止を呼びかけ、全国市議か議長会、関東市議会議長会、東京都市議会議長会に対し、再三廃止の申入れ(書面)を行い、ついに07年度から関東、東京の表彰制度廃止を実現。また、三鷹市議会独自の制度も廃止(07年度から)となり、三鷹市側が行っていた議員表彰制度も廃止となった(07年度から).

○議会改革の課題:
1)議会質問を一問・一答、議員間の自由討議
2)市民が議会に出席し意見を述べる機会の拡大
3)行政は「市民と協働のまちづくり」、議会だってかわらなきゃ市民と一緒に政策(条例)づくり
4)長(行政)から独立した議会事務局(職員)、自治体議会事務局の広域連合体
5)チェック機能への復権、議会選出の監査委員の検証
6)議会召集権は議長に
 その際、栗山町議会基本条例と関連資料、や今村さんからお薦めのあった飯田市自治基本条例などを鏡に議会改革に務めていきたいと

○自治基本条例実現(06年4月施行)、東京外郭環状道路に関する住民投票条例制定直接要求運動に参画。07年議会では
しまざき英治の質問
しまざき英治の賛成討論
 を行う

引き続き「議会基本条例(仮称)」を栗山町議会基本条例(北海道)に学びながら、制定を目指します

○国勢調査では一般質問では積極的に質問及び政策提案を行ってきた。同時に自治省(総務省)交渉に参加、記者会見も行う
 2000年国勢調査で、「密封用シール」及び三鷹市独自のビラ全戸配付実現。国勢調査ホットライン(電話相談)に参加、市民並びに調査員の相談を受け、大きな反響
 2005年では大幅見直しを求め全世帯「整理用封筒」を実現し、密封提出、郵送提出が可能になる。1億円余の税金(国の交付金)を使って、調査する方もされるほうもいやな「国勢調査」名称の変更を含めて抜本的見直しを要求

○住民票の大量閲覧制度について再三一般質問を行い、法改正前に実効ある制度を実現。07年3月議会で住民票や戸籍の附表閲覧制限条例制定となる
<参考>賛成討論
 住基ネットカードについては引き続き選択制を求めてゆく
       いのちが大切にされ、安心して生活できる地域社会
●ダイオキシン、環境ホルモン対策の充実、生産者(企業)の責任によるごみ処理システム=拡大生産者責任の確立

●東京外郭環状道路に反対し、人見街道の歩道の拡幅など安全・安心の生活道路づくり、歩きたくなるまちづくりをすすめます

●水と自然に親しむ環境の確保、オープンスペースのあるまちづくりをすすめます

●学校給食を充実させ、「地産地食」による都市の農業を発展させます、食文化を育てます。

●DV、児童虐待など「いのちのホットライン」を充実させます

●医療・年金制度の改悪に反対し、セフティーネットの充実を求めます。 
○生産から販売、最終ごみ処分まで、生産者の本来の責任で行う拡大生産者責任の実現に向け、ふじみ衛生組合議会も含めて質問・問題提起を行ってきた。一方、環境行政改革フォーラム会員になり政策研究に務め、ごみ環境ビジョン21会員 として、ごみの3R推進、容器包装リサイクル法の改正に伴い拡大生産者実現の運動に参画
 マイはし、マイポット、マイバックを実行し、レジ袋の削減運動を提唱。三鷹市のごみ減量・資源化キャンペーンの一環として「三鷹市オリジナルマイバック」配付を実現

○PCB、アスベスト問題を議会で取り上げ、いち早く対策を立てさせた

○丸池の里事業が充実する

○残念ながら、水道事業は東京都に一元化されてしまいましたが、その過程の中で、三鷹の水源井戸の維持・普及を実現。アスベスト管を鋳鉄管に布設替えするに当って導水管の布設替えの促進を要求・実現。
 07年度から配水場が無人化になることに対して警鐘を鳴らしました(07年3月議会)
<参考>しまざき英治の討論

○学校給食の民間委託反対した
 「三鷹市民の17万人が毎日1枚消費すると年間で6、205万枚になります。1枚あたり約18.3ミリリットル石油を消費、合計113万リットルの石油が必要。
 地球1周を約4万Km、 10キロ/1リットルとすると、自動車が地球を300周近く走る計算になる。
 生産単価が約2円かかることを考えると、マイバック持参・レジ袋削減は一石四鳥の効果がある」と三鷹駅でトーク
                    勤労者への支援策の充実と暮らしを守る
●雇用対策や労働相談、消費者相談事業の充実と市の契約基準に「公正労働基準」の適用を求めます

●融資制度の充実など中小企業、商店の営業と暮らしを守ります。
○緊急雇用対策の充実を要求・実現。
 自治体が行う福祉、医療、教育、環境の分野での雇用拡大を主張。

○三鷹市の就労相談事業が充実・拡大。障がい者就労相談センターが実現

○労働基準法、最低賃金法、労働安全衛生法男女平等参画条例、障害者差別禁止法(改正を含め)など社会的公正基準を適用した「公契約条例」の制定をめざします。

○「カロウシ促進法」とも言われているホワイトカラーエクゼンプションに反対し、労働法制改悪に反対し、働く者のいのちと健康を守ります
しまざき英治の誓い。

非武装・不戦の道を貫いて生きます
戦争への道に永遠の不服従。
 「9条・命どぅ宝」
憲法9条は日本の歴史が生み出した。世界の宝。

   人が人らしく生きいきることができ、生命が大切される社会創りが私の原点。
その最大の破壊者が戦争。
 今の政権は、絶対平和を誓った日本を、
再び戦争をする国、軍事大国に向かって歩ませている。
この国の政治は間違っている。
戦争への道を止めなければならない。

 私は、非武装・不戦の人道を歩み続け、
福祉・環境・人権・平和の三鷹を市民主権で進めていきます。
人が人らしく生きることができる社会を創ること。
政治はその為にあらねばならない。
その最大の規範が日本国憲法。
平和憲法を廃棄してはならない。
憲法九条は生命あるもの全ての宝だから。

  雨だれ石を穿ち、大河も 木の葉のひとしずくからという…
「非武装・不戦」の思想はやがて大河となり、
世界中の人々を「無防備地帯宣言」へと誘う。
憲法9条は日本の歴史が生み出した世界憲法9条にしたい。

         <解説>『命どぅ宝(ぬちどぅたから)』とは・・・

 「命こそ宝」の意味で、琉球最後の国王、尚泰王(しょうたいおう)が詠んだ
琉歌を基にすると言われます。
 また、沖縄戦の最中に沖縄人のひとりによって叫ばれたとも伝えられ、
戦後の反戦平和運動のなかで広く普及した言葉です。

<お知らせ>変えよう!容器包装リサイクル法 

ごみ処理費用は 納税者負担から
生産者・消費者負担へ転換させよう!

  ◆容器包装リサイクル法の見直しにあたり「中間とりまとめ」に対する
とんでもない日本経団連は審議経過を反故にする意見書提出
容リ法の改正法・政府原案、衆議院・環境委員会を通過。19項目に及ぶ付帯決議
 06年5月23日 消された「発生抑制」 拡大生産者責任の拡大ならず レジ袋削減も10%に留まる。
註:衆議院TV/ビデオライブラリーで審議状況を見・聞くことができます。
◎16日、19日、23日の環境委員会はWEBでご覧いただけます。
 まだ見ていない方は こちらをクリックしてビデオライブラリの日付を指定してください。
 http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.cfm?ex=VL

■『お金は誰が払うのか 納税者負担から生産者・消費者負担への転換』
―服部美佐子・杉本裕明著/合同出版/1600―   

 ■月刊地球環境 2006年1月号特集 激論!容器包装リサイクル法改正

お買い物はマイバック持参で、
レジ袋を削減しましょう!
レジ袋50%削減運動にご協力を。

<2006年6月議会で行った清原市長への質問>

 Q2:容器包装リサイクル法改正案の国会審議の中で、政府はレジ袋有料化に伴い10%削減の数値目標を初めて明らかにしました。年間305億枚日本列島総体で消費されるレジ袋、乳幼児を除けば、国民一人当たり毎日1枚消費する計算になります。10%ではいかにも低い、17万人が毎日1枚消費すると年間で6、205万枚になります。1枚あたり約18.3ミリリットル石油を消費します。合計で113万リットルの石油が必要です。地球1周を約4万Km、10キロ/1リットルとすると自動車が地球を300周近く走る計算になります。また生産単価が約2円かかることを考えると、マイバック持参・レジ袋削減は一石四鳥の効果があります。三鷹市として50%削減の数値目標を設定して、この運動に取り組んでいただきたいが、いかでしょうか

多摩市が作成したパンフレット「こんにちは ぼくレジブクローです」より。↑拡大して見れます。

    姉:嶋﨑一江 2008年12月5日夜、ALSと闘い生きた65年。




 納棺ににあたり湯灌をしたのだが、体と髪を洗ってもらっている間に、姉の表情が次第にやわらいでいった。実に柔和なか月になり、遺影に近くなっていった。不思議なことがあるものである。湯の暖かさと時間の経過によって、硬直がとけていくのであろうか…。
 式には「沖縄音楽、特に♪涙そうそう♪をかけておくれ」というのが、生前姉から私が受けたことである。姉が好んでいたCDアルバムの曲が式の前後に流れたていた。
 花が好きだった姉を考え娘たちは祭壇を花で飾った。遺影の写真も生前友人のSさんと選んだものだと娘たちから聞いた。
 ALSと分かり、病気と向き合いながら生きてきた姉、病名は分かっても治療方法がまだ具体化しない難病。医師から余命を告知してもらい。いつか終わる自分の命、ゆえに覚悟して自分の最後を決めていたのかと思う。通夜式も終り、再び♪涙そうそう♪が流された。
 幼なじみ、元の職場の人たちが会葬してくれた。
姉の生い立ちから
 
 1943年4月18日、八王子市元本郷町に織物業を営む父・傳吉、母・キミとの間に二番目の長女として生まれる。
 父は、1944年軍に召集され上海沖へ。母キミは、兄と姉を抱いて八王子大空襲のとき八王子市浄水場に避難し、戦禍を逃れる。1946年父4月3日、元本郷町に帰る。
 光明保育園、八王子市立第五小学校、同第四中学校を卒業、都立第二商業高等学校卒業。同校に在学中、ハンドボール部に加入、八王子文化服装学院(親戚が経営)の夜間部のアルバイト事務を行い、家計を助ける。母はアルバイト帰りの姉を22時頃西八王子駅まで迎えに行った。
高校卒業後生命保険会社に勤め、経理を担当。二人の娘を出産。一旦、専業主婦になったが、娘たちの成長を機に、生命保険会社に働き、トレーナーになる。
 1977年ころ、狐久保の東、日本無線の北西側に“かくれんぼ”という名の昼は喫茶、夜は、オリジナルラベルのウイスキー「かくれんぼ」などを出し、少々お酒が飲める飲食店を始める。店の入口には「過度な飲酒をした方お断り」という貼り紙があった。作家・吉村昭さんが、一人静かにコーヒーを飲んでいかれたと姉は嬉しそうに話していた。この店にいろいろなお客さんがいらしたが、中でも二人の男生が娘と結ばれた。出会い・縁とは不思議なものである。

2004年11月8日、車椅子を操作している姉・一江
14時過ぎに永生病院に行き、父を見舞った。菊の花がきれいに咲いているので、散歩の許可をもっらて、寝台型の車椅子に移してもらい10分ほど病院の玄関口のプランタンのところまで出た。菊を観て父はにことしたようだった。

 高校卒業後生命保険会社に勤め、経理を担当。二人の娘を出産。一旦、専業主婦になったが、娘たちの成長を機に、生命保険会社に働き、トレーナーになる。
 1977年ころ、狐久保の東、日本無線の北西側に“かくれんぼ”という名の昼は喫茶、夜は、オリジナルラベルのウイスキー「かくれんぼ」などを出し、少々お酒が飲める飲食店を始める。店の入口には「過度な飲酒をした方お断り」という貼り紙があった。作家・吉村昭さんが、一人静かにコーヒーを飲んでいかれたと姉は嬉しそうに話していた。この店にいろいろなお客さんがいらしたが、中でも二人の男生が娘と結ばれた。出会い・縁とは不思議なものである。
 その後、大家さんがビルを建てることになり、親しまれ、惜しまれながら“かくれんぼ”は店じまいとなった。
 福祉のボランティア活動をしている公代さんを通じ、橋本泰子さん(現在立正大学名誉教授)の紹介で、弘済園で働くようになった。同園がけやき苑を開設することに伴い同苑の経理担当に異動し、働いていた。

 沖縄のライブ(@上野水上音楽堂)に行ったのがきっかけとなり、三線教室に通い、発表会まででられるように上達した。同時に沖縄の文化にほれ込んでいった。自己流の筆者よりはるかに三線の腕は上達、「英治、そこは〇○だよ」「ちんだみがちがうよ」と教えてもらうことがあった。合奏をしようということになっていたが、JR三鷹駅デッキ上で行った満月祭で♪安里屋ユンタ♪を6人で弾いたのが最初で最後の合奏となった。

 通勤途上で交通事故(一時停止を怠ったタクシーにはねられる)にあい、頭などを強打。職場復帰したが、やがてALS(進行性筋萎縮性側索硬化症)に罹病していることがわかり、同苑を退職し、闘病生活に入る。
 大好きな三線のカラくいを自力で調節ができなくなり、ちんだみに姉の家に行ったこともあった。おそらく楽器を習い、人前で演奏したのは三線が最初なのだと思う。ALSはそれも姉から奪って行った。もっぱらCDで沖縄島唄などを聴くだけになっていった。

 姉は、小学生時代から曲ったことは大嫌い、真直ぐに生きることがモットーであることを娘夫婦に話していたそうである。
 働くことは生きること/人は自分で作ったものを口で食べるもの/人の死も自然死がいいとよく言っていた。弘済園で働いていた時に培われたものと思われる。

 ALSは20万人に5人ほどと言われている難病中の難病、三鷹市の担当者にお世話になりながら、闘病生活をしていた。現在この病気はマウスの実験で、原因は解明されつつあるが、治療方法は、早くてもあと3年はかかりそうだ言われている。
 姉は、顎の噛み合わせが悪いといって、あちこちの医者に通っていたが、今思えばそれが前兆症状であったのかもしれない。
 ALSで都立神経病院に入院加療⇒自宅療養⇒長女宅療養⇒神経病院に再入院⇒グレイス病院に入院。最後まで、気管切開は望まず、自分の生き方を選んで、65年8か月の命の幕を引いた。
 ALSと向き合うまでは少々時間がかかったが、命の尊厳、人間の尊厳を思うがゆえに、気管切開をせず、ぎりぎりの決断として胃ろうをした。


             川平湾(photo by Kzue)

石垣島(シーサイドホテルから撮影 07年5月沖縄へ娘と行って姉が撮影したもの)
 昨年の3月頃、姉から沖縄に行きたいと相談があったので、即、沖縄行きをすすめた。5月に娘たちと石垣島などに行き、自分の一つの夢を果たし、たいそう喜んでいた。

 通夜、告別式に♪涙そうそう♪が時折BGM流された。姉の希望「送り出しは♪涙そうそう♪、夏川りみだよ」である。

◆龍源寺(曹洞宗・八王子市加住町)道士が、戒名を「弦誦光彩信女」とつけてくれた。どういう意味かと多摩斎場で道士に尋ねたら、喪主たちから姉のことを聞いて、考えてくれた。三線を弾き唄う=弦誦。写真・絵画が大好き、広い心、平等思考=写真も絵も光の陰影の彩によってできる。光は広く、平等にあたるもの。との意であることを説明してくれた。
 道士は5か月から105歳まで、引導を渡されたことがあると語ってくれた。「5か月に立ち会った時は、小さなゆりかごに載せられた遺体、ものすごく悲しいことである。しかし、仏の道にあるもの、泣くことは許されず、とても辛いものです。さまざまな人の引導を渡してきました。阪神淡路大震災の時は、各宗派が現地に趣き、それぞれ引導を渡しました。私は、永平寺の指示のもと、行きました。各宗派みんなボランティアです」。この事は、全く知らないことであった。
 姉も私も無宗教であるが、この道士に姉は見送られ、納得してくれたことと思う。

 姉がALSと向き合って3年有余、あまりにも早い別れとなったが、この間にたくさんのことを学ぶことができた。姉を含めALSで逝った人を送ったのは3人目。世界中の人がこの難病から解放される日が1日も早く、来ることを望んでいる。

 落ち着いたら『海の蝶』(高橋治)をまた読むことにした。

姉とは三鷹満月祭(JR三鷹駅前デッキ上)で、6人ほどで安里屋ゆんたを弾いたのが最初で最後、念願の合奏は夢となった。 

通夜、告別市の合間に曹雪昌唱が奏でる二胡と三線のジョイント、夏川りみが唄う♪涙そうそうが流れていた。

 真直ぐに生きた65年有余の人生。


 12月7日22時過ぎ、瀬田敦子さんに「訃報」をE-メールで送った。
 今朝(8日)、彼女からお悔やみをいただいた。

 昨夜、ベッドに入る前にこのメールを拝見し、しばし空を眺めてその後、お姉様を思ってラ・カンパネラを弾きました。
   ♬Liszt La Campanella[翻訳] Liszt La Campanella   ♬Liszt La Campanella[翻訳] Liszt La Campanella

 心からご冥福をお祈りいたします。
 ご家族のお悲しみはいかばかりかと・・・・

 私はピアニストとして、音楽という世界を通して、天界が存在するのを何となく信じています。

 音には倍音という不思議な共鳴音があり、良く耳をすますと不思議な世界へ導かれます。ちょうどお寺の鐘や教会の鐘を無心に聞く内に心が洗われるような気持ちになるのと似ていますね。

 私はコンサートで本当に集中した時、この倍音に耳をすませながら心を込めて音を紡いで行くのですが、そんな時は天界の無限の聴衆が私の音を聞いてくれているような気がしています。

 きっとお姉様もこれからはあちらの世界から私のコンサートにいらして下さることでしょう。

 おさびしくなるでしょうけれど、どうかおからだに気をつけて、ますますご活躍下さいませ。

 1月にお目にかかれるのを楽しみにしております。

 瀬田敦子

姉が行った瀬田淳子さんのコンサート

♬2004年7月25日  チャリティー 瀬田敦子ピアノリサイタル    (詳細はこちら) @東京・庭園美術館     
♬2006年12月17日 X’masコンサート <オールリストプログラム> @東京 上野 奏楽堂

      双葉 三番目の孫、誕生
 08年11月27日

◆昨日(11/6)、出産のため三女はM病院院に入院し、今朝5時半、長女を出産した(3500g)と公代さんから連絡を受けた。午後“兄ちゃん”になる虎太郎を連れて、M病院にお祝いにいった。真っ赤な顔、“赤ちゃん”とはよく言ったものである。
 この子のも一人のオバー(51歳で他界)も喜んでいるに違いない。
 我が娘の場合、順調に胎児は育ち、安産で出産することができた。しかし、今、首都東京でさへ産科医不足、夜間救急医療体制不足、労働貧困などにより安心して子どもを産み育てられる環境にはない。
 12月3日(故・母の誕生日)に市政に関するいぱん質問を行う。第1テーマは「1 命を守る市政の現状と課題について」。その中で、K病院も絡んで、救急夜間診療体制の不備、「里帰り出産」に伴う東京都外での妊婦の健康診断は公費負担適用外になっている問題、乳幼児医療23区並みの公費負担(三多摩格差解消)、滞納世帯・資格証発行に伴う対する子どもへの対応(制度として健康保険適用させる)の問題などをただすことにしている。
 「生命と権利」を守る闘いは25歳の時に、自分の生きる座標軸にすえた課題でもある。
 人らしく生きることができる社会、「明日は世界中のすべての子どもたちが安心して太陽の光利を受けることができ、暖かい布団の中で眠ることができますように…9条・命どぅ宝」と祈った。


☆☆☆
たまたま、目を開けたところを撮った。そのあとは5分ほど目を時々開けたが、あとはぐっすり。「無事生まれてきてくれてありがとう、こんにちは赤ちゃん」オジーからのメッセージ。

ウンチも出て、砂糖水を飲ませてもらって、熟睡。いきんだのは4度、「安産だわね」と公代さん。VTRを見ながら二人はと何やら話していた

なまえはまだきまっていません(11/30M病院にて)
☆☆☆


一人ひとりに背番号。
勝手に番号つけないで!
http://www1.jca.apc.org/juki85/Yokohama/index.html
 三鷹市の住基ネットカード発行枚

人間は番号でしかない・橋本 勝
 東京の全市区町村における住民基本台帳カードの申請件数・申請率
(2003年度)
三鷹市住基ネットカード発行04年度累計
1198枚
三鷹市・市民課調べ
50歳以上が約60%
1年間の増は516件に留まる
 
<参考>2003年度東京都の発行件数
↑詳細はクリック
 総務省「第2回住民基本台帳の閲覧制度等のあり方に関する検討会に提出した
清原委員(三鷹市長)が提出した意見書を見ることができます。

資料一覧は↓こちらから
http://www.soumu.go.jp/
menu_03/shingi_kenkyu/
kenkyu/daityo_eturan/
j_daityo_eturan02.html
 戦争を食いものにして栄える「民営軍事請負会社」
(PMF)


『戦争請負会社』(下)
P・W・シンガー著 山崎淳訳
原著2002年秋 日本語版2004年12月
NHK出版
原著名『"CORPORATE WARRIORS:
The Rise of the Privatized Military Industry" 』

イラクに群がる“新しい死の商人”=「民営軍事請負会社」(PMF)

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最終更新09.05.24