母ちゃんたちの18年 JRによって私たちは人らしく強くなった 司会・米田綱路

米田綱路さん

藤保美年子さん

田中広子さん
米田:一昨年藤保さんに90分のインタビューをする機会がありましたが、(そのときの記事は『抵抗者たち―戦後史の現場か     ら』講談社に掲載されている)田中さんからまず、18年間を振り返ってみて

田中:今、子どもは22歳と20歳、当時小さい二人の子を置いて働いてきた。今年娘は大学を卒業して働いている。息子は高     校を卒業して働いている。「お金がないから大学へいけないと思っているのか」と彼に訊いたら「違うよ」と言うんです。1     年半働いてきて彼は「僕が働いて良かったでしょう」といって25,000円毎月家計に入れてくれるんです。このお金は使    えないですよ。
    解雇された頃「田中さんは悪いことをしてクビになった」と言われていました。「何の理由もなく突然夫が解雇されたらあな    たならどうする」とそういう人に向き合ったんです。そしたら「それなら私だって会社に文句を言いに行く」と言ってくれまし    た。

米田:藤保さんの家族はどうだったんですか

藤保:夫は昨年まで営業活動をしていましたが、国労の締め付けがあり、今は羊羹つくりと、電話での注文を受けています。下    の娘は家計簿をそっと見て、進学しないで就職しました(東京)が、体調を壊して札幌に戻ってきました。調理師の免許を    取りました。当時10歳と7歳ですが、ことの成り行きはわからないまでも、大変なことが起きたということはわかるんです    ね。夫との話をふすまの陰で聞いているんです。
    東京地裁の不当判決の時、娘は「悔しい」とお婆ちゃんに電話を入れ、「東京に飛んで行って抗議しようか」と言ったんで    す。
米田:当時4歳と2歳、闘争団についてどうみているんでしょうか

田中:学校に提出書類で「お父さんの仕事」という欄があるんです。「家族の仕事」ではないんです。「係争中」と書けないし、結    局「無職」と書いたんですね。子どもが学校で作ってきた“個人新聞”『お父さんの仕事』というタイトルでしたが、そこには    私(母親)の仕事が書いてあるんです。父親は事業団にいれられ、仕事を与えられず<自学・自習>をさせられていたの    で、かけなかったんです。今は「サラリーマン」と応えている。有限会社ユーズカンパニーの社員だから…

藤保:今日、鉄建公団訴訟を傍聴してきました。解雇された当時がよみがえってくるんです。涙が出てきました。(被告側)富田    弁護士(女)噛み付きたいくらいになりました。夫は、事業団でどんなにひどい扱いを受けてきたか、人間ではないという     扱いをされたんです。10歳の娘にいろいろわかるんです。
    当局の人はJRに採用された。娘はあの子たちとも仲良くするねと言ってくれました。時間が経つと「お父さんはなぜ働か     せてもらえないの」と涙ながらに質問もされました。その時はただ抱きしめてあげることしかできませんでした。座り込みを    して当局を詰めた時、親が教えたわけでもないのに「お父さんの仕事を返して欲しい」泣き叫んで訴えていました。
    事業団最後の’90年3月31日、その何日か前に、グランドピアノを運び出す、そして夜逃げして駅長室に逃げ込んだ当     局家族もあった。そして夫は二度目の解雇をされました。「怠け者」とかいう町の声に包まれて、悔しくて、目がつり上がっ    ていたと思うんです。気づかせてくれたのは先輩の「みねちゃん最近目がつりあがっているよ」一言でした。明るく元気に    しなければならないと思いました。あら、質問に答えたかしら、いつもそうなの脱線しちゃうの(会場から笑いと拍手)
米田:田中さんはひと前ではせなかったとお聞きしたんですが

田中:そうです。夫にも「書記長は向いてないからなるなら委員長をやりなさい」と言ったんですが、不向きな闘争団の書記長    を引き受けたんですが、頭が疲れ、1年間休ませてもらった。今はオルグ団のメンバーですが、ひと前で話せるような人     ではありませんでした。
    事業団から闘争団になり、生活費もプール制、節約の生活になりました。子どもの制服はすべて“お下がり”とか工夫をし    てきました。その中で子どもたちも私たちも成長して行き、ひと前で話せなかった人が、(こうして話せるようになった)こ     んないい人生ってないですね

米田:藤保さんもひと前では話せなかったのですか

藤保:そうです(会場からえっえ〜とすこしどよめき)。
    田中さんと一緒に行動したのは今日が初めて、なにがちがうのかなー
    先日、辛淑玉さんに「ひもをゆるめて楽しみながらやりなさいよ」と言われtんですが、音威子府には1年間通しての仕事     はないんです。働く場がないということは常に恐怖です。一昨年、昨年と一律3%の賃金ダウン。一年一年どう乗り切る     かに全力を挙げてきました。それが18年間です。国労本部は援助金を切る。年金の支払いをとめる手続きをしなければ    やっていけなかった あらまた (笑い、そして拍手)
    みんなのカンパで支えられてきました。今年を最後に勝負をかけます(拍手)
米田:公判を膨張されてどうでした

田中:藤保さんが闘争団の家族の思いを語ってくれました。
    私たちの闘いは勝つと思っています。
    夫の両親は去年亡くなりました。一緒に住もうといっていたんです。残してくれた畑で、仲間たちと一緒に野菜作りをして    いきます(拍手)
    
このインタビューは嶋アのメモから編集したものです。顔写真は国鉄闘争団のHPから転載させていただきました。